飯島CFOが経理財務フォーラムに出演 ↗
「第5回 経理財務イノベーションフォーラム」が2026年10月22日にオンライン開催され、代表取締役CFOの飯島和人が特別インタビュー映像に出演します。「事業サイドに入り込む、これからのCFO像」をテーマに、財務と事業の一体化に向けた取り組みや、大規模投資の意思決定を支える仕組みを紹介します。
1月28日 : 下野安蘇郡植野村大字船津川字沼端21番地 父熊吉の長男として誕生
水車による精米業を営む
栃木県植野村(現 佐野市)船津川で誕生。創業者藤倉善八の末弟。
1868年(明治元)11月28日栃木県植野村(現 佐野市)船津川で誕生。
東京へ進出し神田明神下に居を定める。
上京、神田明神下に居住
1875年東京へ進出し神田明神下に居を定める。
1875年(明治8)東京へ進出し神田明神下に居を定める。
根掛けの製造を始めた。
「根掛け」の製造を始めた。
神田淡路町1丁目に転居、根掛け事業を始める
1881年「根掛け」の製造を始めた。
1881年(明治14)「根掛け」の製造を始めた。
銀座で第1回デモンストレーションが行われた。
1882年銀座で第1回デモンストレーションが行われた。
1882年(明治15)に銀座で第1回デモンストレーションが行われた時である。
上京。
1883年(明治16)に上京。
2回目が日本橋通りで行われ、記録的な見物人を集めた。
1883年11月に2回目が日本橋通りで行われ、記録的な見物人を集めた。
1883年(明治16)11月に2回目が日本橋通りで行われ、記録的な見物人を集めた。
1883年(明治16)11月3日、日本橋通り電信局のバルコニーのアーク燈を末弟留吉と見に行き、電気に興味を抱く。善八41歳、留吉16歳で、アーク燈の光に感嘆し、電線製造に興味を持つ。
1883年(明治16)11月3日、日本橋通り電信局のバルコニーでアーク灯を見に行き、電気に興味を抱く。
1883年(明治16)11月3日 : 日本橋通り電信局のバルコニーのアーク燈を末弟留吉と見に行き、電気に興味を抱く
日本橋通り電信局のバルコニーのアーク燈を末弟留吉と見に行き、電気に興味を抱く
11月3日 : 日本橋通り電信局のバルコニーのアーク燈を末弟留吉と見に行き、電気に興味を抱く
1884年(明治17)5月、新富座で9代目市川団十郎に口上を頼み、注文が殺到し、根掛け事業が成功する。新製品に『市川掛け』と命名し、全国から注文が殺到。
1884年(明治17)5月、新富座で9代目市川団十郎に口上を頼む。注文が殺到し、根掛け事業が成功する。
1884年(明治17)5月 : 新富座で9代目市川団十郎に口上を頼む : 注文が殺到し、根掛け事業が成功する
5月 : 新富座で9代目市川団十郎に口上を頼む : 注文が殺到し、根掛け事業が成功する
1885年 明治18年 : 藤倉善八、絹・綿巻線製造開始 : 藤倉善八
明治18年 : 藤倉善八、絹・綿巻線製造開始 : 藤倉善八
1885年、藤倉善八が絹・綿巻線製造を開始した。
藤倉善八が絹・綿巻線製造を開始した。
1885 年の創業から120 年余り。
藤倉善八、絹・綿巻線製造開始
1885年(明治18)2月、神田淡路町1丁目1番地で絹・綿巻線の製造を開始。藤倉善八、妻いね、春吉ら12名が従業員で、自宅兼工場を拡大。
1885年(明治18)2月、神田淡路町1丁目1番地で絹・綿巻線の製造を開始した。
1885年(明治18)2月 : 絹・綿巻線製造開始 : 弟春吉と鉄製編組機械を工夫製造し、生産効率改善
藤倉善八が絹・綿巻線の製造に乗り出し、神田淡路町1丁目1番地で絹・綿巻線の製造を開始した。
2月 : 絹・綿巻線製造開始 : 弟春吉と鉄製編組機械を工夫製造し、生産効率改善
1885年2月、神田淡路町1丁目1番地で絹・綿巻線の製造を開始した。
1885年(明治18)2月、創業者である藤倉善八が絹・綿巻線の製造に乗り出したときに始まる。
1886年 明治19年 : 藤倉留吉、渡米
明治19年 : 藤倉留吉、渡米
1886年、藤倉留吉が渡米した。
藤倉留吉が渡米した。
藤倉留吉、渡米
米国に出発。
1886年7月、米国に出発。
1886年(明治19)7月、海外の新文化を学びたいとの堅い決意で米国に出発。
1887年(明治20)米国より大型編組機5台を輸入。
1887年頃、左奥の林の向こうに工場はあった。
1887年 明治20年 : 藤倉善八、米国から大型編組機5台輸入
明治20年 : 藤倉善八、米国から大型編組機5台輸入
1887年(明治20) : 米国より大型編組機5台を輸入
1887年、藤倉善八が米国から大型編組機5台を輸入した。
米国より大型編組機5台を輸入
藤倉善八が米国から大型編組機5台を輸入した。
藤倉善八、米国から大型編組機5台輸入
1888年 明治21年 : 新宿御料地内の製糸場を借り受け工場移転 : 東京線、パラフィン線、コード類の製造開始 : ゴム線の研究に着手
明治21年 : 新宿御料地内の製糸場を借り受け工場移転 : 東京線、パラフィン線、コード類の製造開始 : ゴム線の研究に着手
1888年、工場を新宿御料地に移転し、東京線、パラフィン線、コード類の製造を開始し、ゴム線の研究に着手した。
新宿御料地内の製糸場を借り受け工場を移転し、東京線、パラフィン線、コード類の製造を開始し、ゴム線の研究に着手した。
新宿御料地内の製糸場を借り受け工場移転
東京線、パラフィン線、コード類の製造開始
ゴム線の研究に着手
新宿御料地内の製糸場を借り受け工場移転。東京線、パラフィン線、コード類の製造開始。ゴム線の研究に着手
1888年(明治21)4月、新宿御料地内の製糸場跡を借りうける(新宿工場)。
1888年(明治21)4月、宮内省御料地内(新宿御苑)の製糸場を借り受け新宿工場を開設。玉川上水から引く小川に水車があり、その動力を使う。工場は水車の両側に2棟の木造、瓦葺き、レンガ敷きの建物(15m×32m)であった。設備は組紐機械8台、電線編組機20台、従業員は5~6名。東京線、パラフィン線ランプコードの製造を始める。ゴム線の研究を開始する。
1888年(明治21)4月 : 新宿御料地内の製糸場跡を借りうける(新宿工場)
新宿工場を開設。
4月 : 新宿御料地内の製糸場跡を借りうける(新宿工場)
1888年4月、宮内省御料地内(新宿御苑)の製糸場を借り受け新宿工場を開設。
1888年(明治21)4月、宮内省御料地内(新宿御苑)の製糸場を借り受け新宿工場を開設。
1890年 明治23年 : 藤倉留吉、米国より帰国 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転
明治23 : 藤倉留吉、米国より帰国 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転
松本家の養子となる。
1890年、藤倉留吉が米国から帰国し、工場を千駄ヶ谷900番地に移転した。
藤倉留吉が米国より帰国し、工場を千駄ヶ谷900番地に移転した。
藤倉留吉、米国より帰国
工場を千駄ヶ谷900番地に移転
藤倉留吉、米国より帰国。工場を千駄ヶ谷900番地に移転
帰国。
1890年7月に帰国した。
1890年(明治23)7月に帰国。
1890年(明治23)松本家の養子となる。
1890年(明治23)9月、工場を千駄ヶ谷900番地に移転(千駄ヶ谷工場①)。
1890年(明治23)9月、千駄ヶ谷900番地の紀州徳川家の土地を買収して新工場を建てた。ここにも玉川上水を利用する水車があって、より大きく、より強力であった。水車動力でゴムローラを動かし、ゴム線の製造が始まった。その頃、ゴム線では国産品はなく、専ら高い外国製が使われていた。
1890年(明治23)9月、工場を千駄ヶ谷900番地に移転(千駄ヶ谷工場①)。
1890年(明治23)9月 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転(千駄ヶ谷工場①)
千駄ヶ谷900番地の紀州徳川家の土地を買収して新工場を建てた。
9月 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転(千駄ヶ谷工場①)
1890年9月、千駄ヶ谷900番地の紀州徳川家の土地を買収して新工場を建てた。
1890年(明治23)9月、千駄ヶ谷900番地の紀州徳川家の土地を買収して新工場を建てた。
1893年 明治26年 : 日本で初めてゴム被覆線の製造開始
明治26 : 日本で初めてゴム被覆線の製造開始
1893年、日本で初めてゴム被覆線の製造を開始した。
日本で初めてゴム被覆線の製造を開始した。
日本で初めてゴム被覆線の製造開始
1896年、千駄ヶ谷工場②。
1896年 明治29年 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 岡田顕三、電線製造技術修得のため渡米
明治29 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 岡田顕三、電線製造技術修得のため渡米
工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 岡田顕三、電線製造技術修得のため渡米
工場を千駄ヶ谷922番地に移転
岡田顕三、電線製造技術修得のため渡米
1896年(明治29)6月、工場を千駄ヶ谷922番地に移転(千駄ヶ谷工場②)。
1896年(明治29)6月、工場を千駄ヶ谷922番地に移転(千駄ヶ谷工場②)。
1896年(明治29)6月 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転(千駄ヶ谷工場②)
6月 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転(千駄ヶ谷工場②)
1900年(明治33)藤倉合資会社設立案を作成。
1900年(明治33) : 藤倉合資会社設立案を作成
藤倉合資会社設立案を作成
1900年(明治33)8月、帰国した岡田顕三は、技術面でもっとも重要な役目を果たすのである。
岡田顕三が帰国。
帰国した岡田顕三。
1900年8月、帰国した岡田顕三は、技術面でもっとも重要な役目を果たすのである。
1900年(明治33)8月、帰国した岡田顕三は、技術面でもっとも重要な役目を果たす。
1901年 明治34年 : 創業者・藤倉善八(59歳)死去 : 松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社設立
明治34 : 創業者・藤倉善八(59歳)死去 : 松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社設立 : 松本留吉
創業者・藤倉善八(59歳)死去 : 松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社設立 : 松本留吉
創業者・藤倉善八(59歳)死去
松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社設立
1901年(明治34)5月、洋家具店(横浜)を営む末弟留吉に電線事業に専念の要請。
1901年(明治34)5月、留吉は洋家具店を処分し、善八の要請を受け入れ、上京する。
1901年(明治34)5月 : 洋家具店(横浜)を営む末弟留吉に電線事業に専念の要請
洋家具店を処分。
5月 : 洋家具店(横浜)を営む末弟留吉に電線事業に専念の要請
1901年5月、洋家具店を処分し、善八の要請を受け入れ、上京する。
善八が死去。
1901年10月、善八が死去する。
1901年(明治34)10月8日、藤倉善八が死去(59歳)。遺言により末弟松本留吉が後継者となる。
1901年(明治34)10月8日、留吉が死去(59歳)、遺言により末弟松本留吉が後継者となる。
1901年10月8日 : 死去(59歳)、遺言により末弟松本留吉が後継者となる
10月8日 : 死去(59歳)、遺言により末弟松本留吉が後継者となる
1901年(明治34)10月25日、藤倉電線護謨合名会社を設立し、その代表社員となった。
藤倉電線護謨合名会社を設立。
1901年10月25日、藤倉電線護謨合名会社を設立し、その代表社員となった。
1901年(明治34年)10月25日、藤倉電線護謨合名会社を設立。
1903年(明治36)、旋風で工場全壊。
工場全壊。
日本最初の逓信省ゴム被覆線指定工場となる : 旋風により千駄ヶ谷工場全壊するも3か月後に復旧
旋風で工場全壊。
日本最初の逓信省ゴム被覆線指定工場となる
旋風により千駄ヶ谷工場全壊するも3か月後に復旧
1903年、旋風で工場全壊。
藤倉電線株式会社となった。
松本留吉が代表社員となり藤倉電線株式会社設立 : 藤倉合名会社防水布製造所(現 藤倉コンポジット)設立
松本留吉が代表社員となり藤倉電線株式会社設立
藤倉合名会社防水布製造所(現 藤倉コンポジット)設立
1910年(明治43年)には電線事業の規模拡大の必要性から新社名「藤倉電線株式会社」となった。
1910年(明治43)3月18日、電線事業拡大の必要から電線事業を分離、藤倉電線株式会社が誕生する。
電線事業を分離し、藤倉電線株式会社が誕生。
藤倉電線株式会社が誕生。
1910年3月18日、電線事業拡大の必要から電線事業を分離、藤倉電線株式会社が誕生する。
熔銅・展延・製線作業開始
多層ゴム被覆線の特許取得 : のちの電線要覧の元祖となる「実用電線要覧」発行
多層ゴム被覆線の特許取得
のちの電線要覧の元祖となる「実用電線要覧」発行
知的障がい者施設「藤倉学園」設立(大島)
水運の利便性とより広い工場を求め、深川平久町の2万2000坪を買収し、工場建設着手
深川の熔銅工場完成
深川工場焼失。
野球部創部(1923)
深川工場完成(1923.1)
深川本社・工場完成 : 野球部発足 : 大震災で深川本社・工場全焼
関東大震災で深川工場焼失。
深川工場完成
深川本社・工場完成
野球部発足
大震災で深川本社・工場全焼
1923年、関東大震災で深川工場焼失。
野球部は1923年(大正12)、当時総務部長であった松本新太社長によって創られた。
1923年(大正12)、関東大震災で深川工場焼失。
1923年(大正12)9月1日、関東大震災が完成したばかりの深川工場を襲った。煙突が折れる程度で被害は軽微であったが、その夜、洲崎弁天町で出火した火災で延焼し、深川工場は全焼した。
関東大震災で工場焼失(1923.9)
関東大震災で深川工場全焼
深川工場復旧
1924年3、深川工場再建。
深川工場再建(1924.3)
深川工場再建
1925年(大正14)、工場横にグランドが作られる。練習は午後4時から、試合は休日のみ。
逓信省に国産絶縁紙による1200対ケーブル納入 : 鉄道省の指定工場となる
逓信省に国産絶縁紙による1200対ケーブル納入
鉄道省の指定工場となる
工場横にグランドが作られる。練習は仕事の終わる午後4時から、試合は休日のみと決められていた。
本社新館完成
ユニット型市内ケーブル製造開始 : OFケーブル製造開始 : 研究棟完成
ユニット型市内ケーブル製造開始
OFケーブル製造開始
研究棟完成
日本初となる飛行機用電線「藤光線」製造開始
社標を正式登録 : 鈴木工作所(現 スズキ技研)設立
社標を正式登録
鈴木工作所(現 スズキ技研)設立
藤倉型高周波同軸ケーブルの特許取得 : のちのフジクラ技報の前身となる「藤倉電線彙報」創刊
藤倉型高周波同軸ケーブルの特許取得
のちのフジクラ技報の前身となる「藤倉電線彙報」創刊
1938年(昭和13)12回大会で優勝。
松本留吉社長が関係する会社は45社であった。
都市対抗野球優勝(1938)
初代社長・松本留吉(71歳)死去 : 松本新太、2代社長に就任 : 第12回都市対抗野球優勝 : 藤倉化学工業(現 藤倉化成)設立
初代社長・松本留吉(71歳)死去
松本新太、2代社長に就任
第12回都市対抗野球優勝
藤倉化学工業(現 藤倉化成)設立
東京市代表として、第12回大会を土井投手の活躍などで優勝。
1938年(昭和13)3月、松本新太が2代社長に就任。
松本留吉社長の死去(1938.3)
松本留吉社長の死去により松本新太が2代社長に就任
松本留吉社長の死去により故人の長男松本新太が2代社長に就任した。
1938年(昭和13)3月24日、松本留吉社長が死去、71歳。
松本留吉が死去。
松本留吉死去。
1938年3月24日、松本留吉死去、71歳。
1938年(昭和13)3月24日、松本留吉死去。
1939年(昭和14)13回大会で優勝。
都市対抗野球優勝(1939)
第13回都市対抗野球優勝 : 藤倉航空工業(現 藤倉航装)設立
第13回都市対抗野球優勝
藤倉航空工業(現 藤倉航装)設立
第13回大会も出場し、吉田投手の好投などで連続優勝を成し遂げた。
アルミ電線製造開始
岡田顕三死去 : 藤倉型100kW同軸ケーブル製造開始
岡田顕三死去
藤倉型100kW同軸ケーブル製造開始
1944年(昭和19)に戦争疎開工場として創設した富士工場。
富士工場開設 : 米沢末広電纜工業(現 米沢電線)設立
富士工場開設
米沢末広電纜工業(現 米沢電線)設立
戦争疎開工場として富士工場を創設した。
東京大空襲により深川工場全壊 : 深川工場再建開始
東京大空襲により深川工場全壊
深川工場再建開始
東京大空襲で深川工場全壊(1945.3)
1945年(昭和20)3月10日、東京大空襲で深川工場は全壊。多くの犠牲者を出した。
東京大空襲で深川工場全壊
1945年9、深川工場再建、生産を開始。
復興途上の深川工場 1945.9に再建、生産を開始
深川工場再建、生産を開始
銅・材料などが極度に不足する中、9月に生産を再開させ、戦後の復興を成し遂げる。
石橋五郎、3代社長に就任
NHKに日本最初の24心TVカメラケーブル納入 : 日本発送電にACSR初納入 : ビニル電線製造開始 : キティ台風で深川工場が水害を受ける
NHKに日本最初の24心TVカメラケーブル納入
日本発送電にACSR初納入
ビニル電線製造開始
キティ台風で深川工場が水害を受ける
1953年(昭和28)7月、沼津工場として操業を開始した。
富士工場を沼津に移転させ1953年(昭和28)7月より沼津工場として操業を開始した。
1954年、沼津工場。
沼津工場(1954)
静岡県沼津市に沼津工場(現 沼津事業所)完成 : 社内報「藤倉電線ニュース」創刊 : 第25回都市対抗野球準優勝 : 超高圧実験室完成
沼津工場開設
静岡県沼津市に沼津工場(現 沼津事業所)完成
社内報「藤倉電線ニュース」創刊
第25回都市対抗野球準優勝
超高圧実験室完成
ワイヤハーネス製造開始
東京電力に日本初の154kV OFケーブル納入 : 沼津熔銅設立 : 東京都多摩市に多摩藤倉学園設立
東京電力に日本初の154kV OFケーブル納入
沼津熔銅設立
東京都多摩市に多摩藤倉学園設立
深川・沼津工場に次ぐ第3の工場を思い立ったのは岩戸景気さなかの1960年(昭和35)である。
兵藤嘉門、4代社長に就任
1964年(昭和39)に試運転が始まり
佐倉工場に日本初の66kV POFケーブルを布設 : 通信ケーブルのSZ撚り方式製造装置開発
佐倉工場に日本初の66kV POFケーブルを布設
通信ケーブルのSZ撚り方式製造装置開発
1964年(昭和39)に佐倉工場の試運転が始まった。
1965年(昭和40)から本格稼動した佐倉工場
佐倉工場(1965)
千葉県佐倉市に佐倉工場(現 佐倉事業所)完成 : 栗山久治、5代社長に就任 : ダイスタンプ式プリント配線板生産開始
佐倉工場開設
千葉県佐倉市に佐倉工場(現 佐倉事業所)完成
栗山久治、5代社長に就任
ダイスタンプ式プリント配線板生産開始
翌1965年(昭和40)から佐倉工場が本格稼動した。
1968年、深川工場。
霞が関ビルに本社事務所設置
1968年(昭和43)4月に日本最初の超高層ビルである霞が関ビル(地上36階、地下3階)が完成した。藤倉電線も霞が関ビルへの本社事務所移転を決定し、同ビル11階で業務を開始した
1968年(昭和43)4月に日本最初の超高層ビルである霞が関ビル(地上36階、地下3階)が完成した。藤倉電線も霞が関ビルへの本社事務所移転を決定し、同ビル11階で業務を開始した。
霞が関ビル(1968.4)
本社事務所霞が関ビルへ移転
東京電力に275kV OFケーブル納入
1970年(昭和45)に第4の工場となる鈴鹿工場を建設した
1970年(昭和45)に第4の工場となる鈴鹿工場を建設した。
鈴鹿工場(1970)
三重県鈴鹿市に鈴鹿工場(現 鈴鹿事業所)完成
鈴鹿工場開設
光ファイバの取り組みを進めていた
木野二郎、6代社長に就任 : 社史「88年史」刊行
木野二郎、6代社長に就任
社史「88年史」刊行
木野新社長は1974年(昭和49)年頭に非常事態宣言を行い、経費節減などの対策を示した。藤倉電線も輸出拡大を図る一方、電線周辺での事業拡大を図るために「機器電材」「海外」の2事業部を新設した。
1974年年頭に木野新社長が非常事態宣言を行い、経費節減などの対策を示した。藤倉電線は輸出拡大を図る一方、電線周辺での事業拡大を図るために「機器電材」「海外」の2事業部を新設した。
CVD法による光ファイバ母材製造の検討開始 : 275kV CVケーブル開発 : 協栄線材(現 フジクラハイオプト)設立
木野新社長は1974年年頭に非常事態宣言を行い、経費節減などの対策を示した。藤倉電線も輸出拡大を図る一方、電線周辺での事業拡大を図るために「機器電材」「海外」の2事業部を新設した。
CVD法による光ファイバ母材製造の検討開始
275kV CVケーブル開発
協栄線材(現 フジクラハイオプト)設立
木野新社長は年頭に非常事態宣言を行い、経費節減などの対策を示した。藤倉電線も輸出拡大を図る一方、電線周辺での事業拡大を図るために「機器電材」「海外」の2事業部を新設した。
1975年(昭和50)より電電公社と共同開発を行い
1975年より電電公社と共同開発を行った。
日本電信電話公社(現 NTT)、古河電気工業、住友電気工業、フジクラ間で光ファイバ共同研究協定締結 : 日本初、平型エレベータケーブル開発
日本電信電話公社(現 NTT)、古河電気工業、住友電気工業、フジクラ間で光ファイバ共同研究協定締結
日本初、平型エレベータケーブル開発
電電公社と共同開発を行った
電電公社と共同開発を行った。
1976年(昭和51)にはMCVD法により極低損失ファイバを開発し
1976年(昭和51)にはMCVD法により極低損失ファイバを開発し、長波長側に超低損失領域があることを発見(IEEEの論文賞受賞)した。
1976年にMCVD法により極低損失ファイバを開発し、長波長側に超低損失領域があることを発見し、IEEEの論文賞を受賞した。
日本電信電話公社(現 NTT)と世界初の長波長極低損失光ファイバ共同開発 : 東京電力袖ヶ浦火力に500kV OFケーブル納入 : 河村勝夫、7代社長に就任
1976年にMCVD法により極低損失ファイバを開発し、長波長側に超低損失領域があることを発見(IEEEの論文賞受賞)。
日本電信電話公社(現 NTT)と世界初の長波長極低損失光ファイバ共同開発
東京電力袖ヶ浦火力に500kV OFケーブル納入
河村勝夫、7代社長に就任
MCVD法により極低損失ファイバを開発し、長波長側に超低損失領域があることを発見(IEEEの論文賞受賞)した。
高抗張力線入りユニット型ファイバ開発 : 日本初、154kV CVケーブル実用化 : 本社事務所を五反田藤倉ビルに移転
高抗張力線入りユニット型ファイバ開発
日本初、154kV CVケーブル実用化
本社事務所を五反田藤倉ビルに移転
1977年(昭和52)10月、本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビルに移転した
1977年(昭和52)10月、本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビル(地上9階、地下1階)に移転した。
1977年10月、本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビルに移転した。
本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビルに移転した。
本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビル(地上9階、地下1階)に移転した。
本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビル(地上9階、地下1階)に移転した。当初は貸しビル用としての建築であったが、折からの不況により、期待していたテナントが見つからず、自社の本社事務所として使用することとなった。
リボン電線、フラットケーブル製造開始 : 電子機器用フレキシブルプリント配線板(FPC)の生産開始 : 世界初低損失光シングルモードファイバで0.27dB/km達成
リボン電線、フラットケーブル製造開始
電子機器用フレキシブルプリント配線板(FPC)の生産開始
世界初低損失光シングルモードファイバで0.27dB/km達成
1980年(昭和55年)には極低OHファイバを国産自主技術であるVAD法により世界に先駆け開発
1980年(昭和55年)には極低OHファイバを国産自主技術であるVAD法により世界に先駆け開発をし、その広い低損失領域の実現により、現在の波長多重通信へとつながった。
1980年に極低OHファイバをVAD法により開発した。
メタシールSPケーブル開発 : シングルモード用光ファイバ融着接続機開発
1980年に極低OHファイバを国産自主技術であるVAD法により世界に先駆け開発した。
極低OHファイバを国産自主技術であるVAD法により世界に先駆け開発をし、その広い低損失領域の実現により、現在の波長多重通信へとつながった。
メタシールSPケーブル開発
シングルモード用光ファイバ融着接続機開発
融雪用ヒートパイプ開発 : 日本初、光ファイバ複合架空地線開発
融雪用ヒートパイプ開発
日本初、光ファイバ複合架空地線開発
半導体圧力センサ開発 : 275kV CVケーブル納入 : 加賀谷誠一、8代社長に就任 : 加賀谷誠一、8代社長に就任 : 佐倉工場に光工場完成 : メンブレンスイッチ生産開始
半導体圧力センサ開発
275kV CVケーブル納入
加賀谷誠一、8代社長に就任
佐倉工場に光工場完成
メンブレンスイッチ生産開始
日本列島縦貫用光ファイバ納入布設開始 : Fヒータを生産開始。 : 世界最長となるヒートパイプ融雪システムを定山渓温泉に納入
日本列島縦貫用光ファイバ納入布設開始
Fヒータを生産開始。
世界最長となるヒートパイプ融雪システムを定山渓温泉に納入
タイ王国最初の製造拠点となるフジクラタイランド社設立
1984年(昭和59)8月、タイ王国にフジクラタイランド社を設立した
1984年(昭和59)8月、タイ王国にフジクラタイランド社を設立した。
1984年8月、タイ王国にフジクラタイランド社を設立した。
1984年8月にタイ王国にフジクラタイランド社を設立した。
タイ王国にフジクラタイランド社を設立した。
タイ王国にフジクラタイランド社を設立した。フジクラタイランド社はタイ王国現地法人の第一号の会社である。
創業100周年 : 世界初、コア直視型光ファイバ融着接続機開発 : 新社章制定 : 新社章制定
創業100周年を機に、電線にとらわれない企業イメージを作ろうと新呼称「フジクラ」を採用し、新社章を制定した。そのほかに100年史「フジクラ100年の歩み」の刊行、新基本方針の制定を行う。
創業100周年
世界初、コア直視型光ファイバ融着接続機開発
新社章制定
酸化物超電導材料の線材化に成功 : 佐倉工場に光エレクトロニクス研究所完成 : 社史「フジクラ100年の歩み」編纂
酸化物超電導材料の線材化に成功
佐倉工場に光エレクトロニクス研究所完成
社史「フジクラ100年の歩み」編纂
フジクラヨーロッパ社設立 : 世界初、CSトロリー線開発 : 世界初、多心光ファイバ融着接続機開発
フジクラヨーロッパ社設立
世界初、CSトロリー線開発
世界初、多心光ファイバ融着接続機開発
光線路監視システム納入開始
1990年(平成2)本社ビルが完成。深川に本社を統合し、営業、技術、本社機能等が一体となって業務を遂行できる体制が整った
1990年(平成2)本社ビルが完成。深川に本社を統合し、営業、技術、本社機能等が一体となって業務を遂行できる体制が整った。
1990年に本社ビルが完成し、深川に本社を統合した。
エルビウムドープ光ファイバ増幅器開発 : シスコム(現 フジクラソリューションズ)設立 : 深川新本社ビル完成
本社ビルが完成。深川に本社を統合し、営業、技術、本社機能等が一体となって業務を遂行できる体制が整った。
エルビウムドープ光ファイバ増幅器開発
シスコム(現 フジクラソリューションズ)設立
深川新本社ビル完成
光システム開発センター完成 : フジクラプレシジョン設立
光システム開発センター完成
フジクラプレシジョン設立
千葉県富津市に富津工場完成 : 千葉県富津市に富津工場完成 : 社名を「フジクラ」へ変更 : 社名を「フジクラ」へ変更 : 田中重信、9代社長に就任 : 田中重信、9代社長に就任
千葉県富津市に富津工場完成
社名を「フジクラ」へ変更
田中重信、9代社長に就任
1992年(平成4)10月、深川工場に代わる電力ケーブル製造・開発の新たな拠点として富津工場を建設し、社名変更と同じ日に操業を開始した
1992年(平成4)10月1日、藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った
1992年(平成4)10月、深川工場に代わる電力ケーブル製造・開発の新たな拠点として富津工場を建設し、社名変更と同じ日に操業を開始した。
1992年(平成4)10月1日、藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。
1992年10月1日、藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。
1992年10月、富津工場を建設し、操業を開始した。
1992年10月に富津工場を建設し、操業を開始した。
1992年10月1日に藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。
藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。
深川工場に代わる電力ケーブル製造・開発の新たな拠点として富津工場を建設し、社名変更と同じ日に操業を開始した。
藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。長年にわたり電線一辺倒であった藤倉電線も、電子材料や光システムといった新規事業分野に進出し、電線メーカから脱皮を遂げつつあった。こうした状況下にあって、電線事業の強化を図る一方、新規分野の進出に積極的に取り組み、電線にとらわれない企業イメージをアピールした新たなフジクラの出発である。
深川工場に代わる電力ケーブル製造・開発の新たな拠点として富津工場を建設し、社名変更と同じ日に操業を開始した。電力ケーブルの超高圧化、大容量、長尺化が進む中、富津工場は世界トップクラスの超高圧CVケーブル、OFケーブル、海底ケーブル製造の拠点としてユーザーニーズにフルに対応するために建設された最先端の工場である。
深川本社に東京R&Dセンター完成 : 深川本社に東京R&Dセンター完成 : 500kV CVケーブル、北本光複合海底ケーブル納入
深川本社に東京R&Dセンター完成
500kV CVケーブル、北本光複合海底ケーブル納入
超低損失多心コネクタ開発
普及型小型光ファイバアンプモジュール開発
関電・電発に世界最大規模の直流500kV OF海底ケーブル納入 : 世界初、リサイクルできるエコ電線開発
関電・電発に世界最大規模の直流500kV OF海底ケーブル納入
世界初、リサイクルできるエコ電線開発
辻川昭、10代社長に就任 : 辻川昭、10代社長に就任 : 新幹線用新信号ケーブル開発 : 500kV CVケーブル新京葉豊洲線納入
辻川昭、10代社長に就任
新幹線用新信号ケーブル開発
500kV CVケーブル新京葉豊洲線納入
2000年(平成12)、新たな都市「深川ギャザリア」が誕生した
2000年(平成12)、新たな都市「深川ギャザリア」が誕生した。
2000年に深川ギャザリアが誕生した。
深川工場跡地再開発「深川ギャザリア」誕生 : 深川工場跡地再開発「深川ギャザリア」誕生
2000年に深川工場跡地を再開発し、深川ギャザリアを誕生させた。
深川工場跡地を再開発し、新たな都市「深川ギャザリア」が誕生した。
深川工場跡地を再開発し、新たな都市「深川ギャザリア」が誕生した。歴史ある深川の地に活気ある街づくりを進め、「ビジネス」、「ショッピング」、「アメニティ」の3つの機能を持つ複合施設を展開している。
深川工場跡地再開発「深川ギャザリア」誕生
フジクラエレクトロニクス(上海)設立 : FTTH光製品商品化 : 自動車用着座センサ開発
フジクラエレクトロニクス(上海)設立
FTTH光製品商品化
自動車用着座センサ開発
高圧CV活線診断装置で澁澤賞受賞 : 地球深部探査船用ケーブル初納入 : ウエハレベルパッケージ生産開始
高圧CV活線診断装置で澁澤賞受賞
地球深部探査船用ケーブル初納入
ウエハレベルパッケージ生産開始
色素増感太陽電池開発 : 中国統括会社 藤倉貿易(上海)(現 藤倉(中国))設立
色素増感太陽電池開発
中国統括会社 藤倉貿易(上海)(現 藤倉(中国))設立
超高速エレベータケーブル納入
2005年(平成17)に創業120周年を迎えた
2005年(平成17)に創業120周年を迎えた。
2005年に創業120周年を迎えた。
創業120周年 : 大橋一彦、11代社長に就任 : 大橋一彦、11代社長に就任 : 新経営理念「MVCV」導入 : 古河電気工業と電力合弁会社のビスキャス設立 : 三菱電線工業と合弁会社「フジクラ・ダイヤケーブル」設立 : アメリカフジクラ(AFL)設立
2005年に創業120周年を迎え、新しい経営理念「MVCV」を制定した。
創業120周年を迎えた。新しい経営理念である「MVCV(ミッション・ビジョン・基本的価値)」を制定する。
絵本「飛ぶぞう。」を記念事業のひとつとして制作し、絵本を使い新経営理念を社員に伝えている。
創業120周年を迎えた。新しい経営理念である「MVCV(ミッション・ビジョン・基本的価値)」を制定する。絵本「飛ぶぞう。」を記念事業のひとつとして制作し、絵本を使い新経営理念を社員に伝えている。
創業120周年
大橋一彦、11代社長に就任
新経営理念「MVCV」導入
古河電気工業と電力合弁会社のビスキャス設立
三菱電線工業と合弁会社「フジクラ・ダイヤケーブル」設立
アメリカフジクラ(AFL)設立
スペインACEの株式60%を取得 : 創業120周年記念事業として経営理念をわかりやすく伝える絵本「飛ぶぞう。」を作成 : 創業120周年記念事業として経営理念をわかりやすく伝える絵本「飛ぶぞう。」を作成
スペインACEの株式60%を取得
創業120周年記念事業として経営理念をわかりやすく伝える絵本「飛ぶぞう。」を作成
本社ショールームリニューアル : 本社ショールームリニューアル : イットリウム系酸化物超電導線材、世界記録更新 : ファイバーテック株式会社買収
本社ショールームリニューアル
イットリウム系酸化物超電導線材、世界記録更新
ファイバーテック株式会社買収
スペインACEを子会社化
長浜洋一、12代社長に就任 : 長浜洋一、12代社長に就任
長浜洋一、12代社長に就任
タイ王国のグループ7社を統合し、フジクラエレクトロニクス(タイランド)(FETL)設立 : タイ王国のグループ7社を統合しFETL設立 : オプトエナジーを買収 : 深川工場跡地再開発「深川ギャザリア」完成 : ビオトープ「フジクラ 木場千年の森」オープン : ビオトープ「フジクラ 木場千年の森」オープン
タイ王国のグループ7社を統合し、フジクラエレクトロニクス(タイランド)(FETL)設立
オプトエナジーを買収
深川工場跡地再開発「深川ギャザリア」完成
ビオトープ「フジクラ 木場千年の森」オープン
タイ王国の洪水で工場被災
光ファイバの量産性に優れたVAD法がIEEEマイルストーン認定 : 光ファイバの量産性に優れたVAD法がIEEEマイルストーン認定
光ファイバの量産性に優れたVAD法がIEEEマイルストーン認定
伊藤雅彦、13代社長に就任 : 伊藤雅彦、13代社長に就任 : フジクラグループタイ王国洪水復興宣言 : フジクラ・ダイヤケーブルに産業用電線事業の製造事業および販売事業を統合 : 「フジクラグループ環境長期ビジョン2050を制定 : ビスキャスより配電線・架空送電線事業を譲渡
伊藤雅彦、13代社長に就任 : 伊藤雅彦、13代社長に就任 : フジクラグループタイ王国洪水復興宣言 : フジクラ・ダイヤケーブルに産業用電線事業の製造事事業および販売事業を統合 : 「フジクラグループ環境長期ビジョン2050を制定 : ビスキャスより配電線・架空送電線事業を譲渡
伊藤雅彦、13代社長に就任
フジクラグループタイ王国洪水復興宣言
フジクラ・ダイヤケーブルに産業用電線事業の製造事業および販売事業を統合
「フジクラグループ環境長期ビジョン2050を制定
ビスキャスより配電線・架空送電線事業を譲渡
「フジクラ 木場千年の森」が東京都「江戸のみどり登録緑地(優良緑地)」に登録 : 監査等委員会設置会社に移行
「フジクラ 木場千年の森」が東京都「江戸のみどり登録緑地(優良緑地)」に登録
監査等委員会設置会社に移行
イノベーションハブ「BRIDGE」を開設 : 世界最大心数の光ファイバケーブル(6,912心 Wrapping Tube Cable : Ⓡ : (WTC : Ⓡ : ))の販売開始
イノベーションハブ「BRIDGE」を開設
世界最大心数の光ファイバケーブル(6,912心 Wrapping Tube Cable : Ⓡ : (WTC : Ⓡ : ))の販売開始
イノベーションハブ「BRIDGE」を開設 : 世界最大心数の光ファイバケーブル(6,912心 Wrapping Tube Cable : Ⓡ : (WTC : Ⓡ : ))の販売開始
新型多心光ファイバ融着接続機90Rの販売開始 : スーパーコンピュータ「富岳」の冷却部品にコールドプレートが採用
新型多心光ファイバ融着接続機90Rの販売開始
スーパーコンピュータ「富岳」の冷却部品にコールドプレートが採用
タイ王国に電子部品製造会社「Fujikura Electronic Components (Thailand) Ltd.」を設立
タイ王国に電子部品製造会社「\"Fujikura Electronic Components (Thailand) Ltd.\"」を設立
岡田直樹、14代社長に就任 : フレキシブルプリント配線板の製造販売会社「株式会社フジクラプリントサーキット」を設立 : 送電線・メタルケーブル(ゴム絶縁電線含む)の製造販売会社「株式会社フジクラエナジーシステムズ」を設立 : 東京証券取引所プライム市場へ移行 : 香港に電子関連製品の販売会社「藤倉香港貿易有限公司」を設立
岡田直樹、14代社長に就任
フレキシブルプリント配線板の製造販売会社「株式会社フジクラプリントサーキット」を設立
送電線・メタルケーブル(ゴム絶縁電線含む)の製造販売会社「株式会社フジクラエナジーシステムズ」を設立
東京証券取引所プライム市場へ移行
香港に電子関連製品の販売会社「藤倉香港貿易有限公司」を設立
レアアース系高温超電導線材を小型核融合炉向けに増産 : レアアース系高温超電導線材 : 核融合炉の開発において世界をリードする米CFS社にレアアース系高温超電導線材納入開始
レアアース系高温超電導線材を小型核融合炉向けに増産
レアアース系高温超電導線材納入開始
レアアース系高温超電導線材を小型核融合炉向けに増産 : 核融合炉の開発において世界をリードする米CFS社にレアアース系高温超電導線材納入開始
核融合炉の開発において世界をリードする米CFS社にレアアース系高温超電導線材納入開始
創業以来初の全国テレビCM放送開始
「第5回 経理財務イノベーションフォーラム」が2026年10月22日にオンライン開催され、代表取締役CFOの飯島和人が特別インタビュー映像に出演します。「事業サイドに入り込む、これからのCFO像」をテーマに、財務と事業の一体化に向けた取り組みや、大規模投資の意思決定を支える仕組みを紹介します。
日興フロッギーは、代表取締役社長CEOの岡田直樹へのインタビュー記事を掲載しました。記事では、生成AIの普及に伴うデータセンタ需要の拡大や、独自技術の光ファイバケーブル開発について紹介しています。インタビューは前後編の2部構成です。
藤倉電線は2026年9月9日から11日まで幕張メッセで開催されるFUSION POWER WORLD -核融合発電ワールド- 2026に出展します。同社は高温超電導線材とその技術を紹介します。
藤倉電線は、FTSE Russellが設計した3つのESG投資指数に継続して選定されました。これらの指数は、コーポレートガバナンスや気候変動などの実績に基づいています。
2024年7月2日、保守委託先が管理するVPN装置を通じて、藤倉電線株式会社の情報ネットワークへの不正アクセスと情報流出の痕跡が確認されました。対象となったサーバの一部には個人情報が含まれており、同社は調査を完了したとして、個人情報保護法に基づく最終報告を公表しました。