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藤倉電線株式会社

現:株式会社フジクラ別名藤倉電線株式会社(現:株式会社フジクラ)別名Fujikura Electric Wire Co., Ltd.別名Current: Fujikura Co., Ltd.別名株式会社フジクラ別名
銘柄コード
—
上場市場
—
国
Japan
従業員(連結)
50,586
関連会社
31
§01

基本情報

BASIC
所在地
〒135-8512 東京都江東区木場1-5-1
社長
岡田 直樹
資本金
53,000,000,000  (530 億)
従業員数(単独)
従業員数(連結)
50,586 人
開始日
1881-01-01
終了日
§02

サイト

1 DOMAINS
§03

事業内容

6
ファイバレーザ情報通信エレクトロニクス自動車超電導不動産
§04

関連会社

31 COMPANIES
§05

関連図

NETWORK
資本関係 得意先 仕入先 業務提携 銀行・株主 ドラッグで移動 · クリックで詳細へ
§06

沿革

495 EVENTS

1月28日 : 下野安蘇郡植野村大字船津川字沼端21番地 父熊吉の長男として誕生

水車による精米業を営む

栃木県植野村(現 佐野市)船津川で誕生。創業者藤倉善八の末弟。

1868年(明治元)11月28日栃木県植野村(現 佐野市)船津川で誕生。

東京へ進出し神田明神下に居を定める。

上京、神田明神下に居住

1875年東京へ進出し神田明神下に居を定める。

1875年(明治8)東京へ進出し神田明神下に居を定める。

根掛けの製造を始めた。

「根掛け」の製造を始めた。

神田淡路町1丁目に転居、根掛け事業を始める

1881年「根掛け」の製造を始めた。

1881年(明治14)「根掛け」の製造を始めた。

銀座で第1回デモンストレーションが行われた。

1882年銀座で第1回デモンストレーションが行われた。

1882年(明治15)に銀座で第1回デモンストレーションが行われた時である。

上京。

1883年(明治16)に上京。

2回目が日本橋通りで行われ、記録的な見物人を集めた。

1883年11月に2回目が日本橋通りで行われ、記録的な見物人を集めた。

1883年(明治16)11月に2回目が日本橋通りで行われ、記録的な見物人を集めた。

1883年(明治16)11月3日、日本橋通り電信局のバルコニーのアーク燈を末弟留吉と見に行き、電気に興味を抱く。善八41歳、留吉16歳で、アーク燈の光に感嘆し、電線製造に興味を持つ。

1883年(明治16)11月3日、日本橋通り電信局のバルコニーでアーク灯を見に行き、電気に興味を抱く。

1883年(明治16)11月3日 : 日本橋通り電信局のバルコニーのアーク燈を末弟留吉と見に行き、電気に興味を抱く

日本橋通り電信局のバルコニーのアーク燈を末弟留吉と見に行き、電気に興味を抱く

11月3日 : 日本橋通り電信局のバルコニーのアーク燈を末弟留吉と見に行き、電気に興味を抱く

1884年(明治17)5月、新富座で9代目市川団十郎に口上を頼み、注文が殺到し、根掛け事業が成功する。新製品に『市川掛け』と命名し、全国から注文が殺到。

1884年(明治17)5月、新富座で9代目市川団十郎に口上を頼む。注文が殺到し、根掛け事業が成功する。

1884年(明治17)5月 : 新富座で9代目市川団十郎に口上を頼む : 注文が殺到し、根掛け事業が成功する

5月 : 新富座で9代目市川団十郎に口上を頼む : 注文が殺到し、根掛け事業が成功する

1885年 明治18年 : 藤倉善八、絹・綿巻線製造開始 : 藤倉善八

明治18年 : 藤倉善八、絹・綿巻線製造開始 : 藤倉善八

1885年、藤倉善八が絹・綿巻線製造を開始した。

藤倉善八が絹・綿巻線製造を開始した。

1885 年の創業から120 年余り。

藤倉善八、絹・綿巻線製造開始

1885年(明治18)2月、神田淡路町1丁目1番地で絹・綿巻線の製造を開始。藤倉善八、妻いね、春吉ら12名が従業員で、自宅兼工場を拡大。

1885年(明治18)2月、神田淡路町1丁目1番地で絹・綿巻線の製造を開始した。

1885年(明治18)2月 : 絹・綿巻線製造開始 : 弟春吉と鉄製編組機械を工夫製造し、生産効率改善

藤倉善八が絹・綿巻線の製造に乗り出し、神田淡路町1丁目1番地で絹・綿巻線の製造を開始した。

2月 : 絹・綿巻線製造開始 : 弟春吉と鉄製編組機械を工夫製造し、生産効率改善

1885年2月、神田淡路町1丁目1番地で絹・綿巻線の製造を開始した。

1885年(明治18)2月、創業者である藤倉善八が絹・綿巻線の製造に乗り出したときに始まる。

1886年 明治19年 : 藤倉留吉、渡米

明治19年 : 藤倉留吉、渡米

1886年、藤倉留吉が渡米した。

藤倉留吉が渡米した。

藤倉留吉、渡米

米国に出発。

1886年7月、米国に出発。

1886年(明治19)7月、海外の新文化を学びたいとの堅い決意で米国に出発。

1887年(明治20)米国より大型編組機5台を輸入。

1887年頃、左奥の林の向こうに工場はあった。

1887年 明治20年 : 藤倉善八、米国から大型編組機5台輸入

明治20年 : 藤倉善八、米国から大型編組機5台輸入

1887年(明治20) : 米国より大型編組機5台を輸入

1887年、藤倉善八が米国から大型編組機5台を輸入した。

米国より大型編組機5台を輸入

藤倉善八が米国から大型編組機5台を輸入した。

藤倉善八、米国から大型編組機5台輸入

1888年 明治21年 : 新宿御料地内の製糸場を借り受け工場移転 : 東京線、パラフィン線、コード類の製造開始 : ゴム線の研究に着手

明治21年 : 新宿御料地内の製糸場を借り受け工場移転 : 東京線、パラフィン線、コード類の製造開始 : ゴム線の研究に着手

1888年、工場を新宿御料地に移転し、東京線、パラフィン線、コード類の製造を開始し、ゴム線の研究に着手した。

新宿御料地内の製糸場を借り受け工場を移転し、東京線、パラフィン線、コード類の製造を開始し、ゴム線の研究に着手した。

新宿御料地内の製糸場を借り受け工場移転

東京線、パラフィン線、コード類の製造開始

ゴム線の研究に着手

新宿御料地内の製糸場を借り受け工場移転。東京線、パラフィン線、コード類の製造開始。ゴム線の研究に着手

1888年(明治21)4月、新宿御料地内の製糸場跡を借りうける(新宿工場)。

1888年(明治21)4月、宮内省御料地内(新宿御苑)の製糸場を借り受け新宿工場を開設。玉川上水から引く小川に水車があり、その動力を使う。工場は水車の両側に2棟の木造、瓦葺き、レンガ敷きの建物(15m×32m)であった。設備は組紐機械8台、電線編組機20台、従業員は5~6名。東京線、パラフィン線ランプコードの製造を始める。ゴム線の研究を開始する。

1888年(明治21)4月 : 新宿御料地内の製糸場跡を借りうける(新宿工場)

新宿工場を開設。

4月 : 新宿御料地内の製糸場跡を借りうける(新宿工場)

1888年4月、宮内省御料地内(新宿御苑)の製糸場を借り受け新宿工場を開設。

1888年(明治21)4月、宮内省御料地内(新宿御苑)の製糸場を借り受け新宿工場を開設。

1890年 明治23年 : 藤倉留吉、米国より帰国 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転

明治23 : 藤倉留吉、米国より帰国 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転

松本家の養子となる。

1890年、藤倉留吉が米国から帰国し、工場を千駄ヶ谷900番地に移転した。

藤倉留吉が米国より帰国し、工場を千駄ヶ谷900番地に移転した。

藤倉留吉、米国より帰国

工場を千駄ヶ谷900番地に移転

藤倉留吉、米国より帰国。工場を千駄ヶ谷900番地に移転

帰国。

1890年7月に帰国した。

1890年(明治23)7月に帰国。

1890年(明治23)松本家の養子となる。

1890年(明治23)9月、工場を千駄ヶ谷900番地に移転(千駄ヶ谷工場①)。

1890年(明治23)9月、千駄ヶ谷900番地の紀州徳川家の土地を買収して新工場を建てた。ここにも玉川上水を利用する水車があって、より大きく、より強力であった。水車動力でゴムローラを動かし、ゴム線の製造が始まった。その頃、ゴム線では国産品はなく、専ら高い外国製が使われていた。

1890年(明治23)9月、工場を千駄ヶ谷900番地に移転(千駄ヶ谷工場①)。

1890年(明治23)9月 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転(千駄ヶ谷工場①)

千駄ヶ谷900番地の紀州徳川家の土地を買収して新工場を建てた。

9月 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転(千駄ヶ谷工場①)

1890年9月、千駄ヶ谷900番地の紀州徳川家の土地を買収して新工場を建てた。

1890年(明治23)9月、千駄ヶ谷900番地の紀州徳川家の土地を買収して新工場を建てた。

1893年 明治26年 : 日本で初めてゴム被覆線の製造開始

明治26 : 日本で初めてゴム被覆線の製造開始

1893年、日本で初めてゴム被覆線の製造を開始した。

日本で初めてゴム被覆線の製造を開始した。

日本で初めてゴム被覆線の製造開始

1896年、千駄ヶ谷工場②。

1896年 明治29年 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 岡田顕三、電線製造技術修得のため渡米

明治29 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 岡田顕三、電線製造技術修得のため渡米

工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 岡田顕三、電線製造技術修得のため渡米

工場を千駄ヶ谷922番地に移転

岡田顕三、電線製造技術修得のため渡米

1896年(明治29)6月、工場を千駄ヶ谷922番地に移転(千駄ヶ谷工場②)。

1896年(明治29)6月、工場を千駄ヶ谷922番地に移転(千駄ヶ谷工場②)。

1896年(明治29)6月 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転(千駄ヶ谷工場②)

6月 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転(千駄ヶ谷工場②)

1900年(明治33)藤倉合資会社設立案を作成。

1900年(明治33) : 藤倉合資会社設立案を作成

藤倉合資会社設立案を作成

1900年(明治33)8月、帰国した岡田顕三は、技術面でもっとも重要な役目を果たすのである。

岡田顕三が帰国。

帰国した岡田顕三。

1900年8月、帰国した岡田顕三は、技術面でもっとも重要な役目を果たすのである。

1900年(明治33)8月、帰国した岡田顕三は、技術面でもっとも重要な役目を果たす。

1901年 明治34年 : 創業者・藤倉善八(59歳)死去 : 松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社設立

明治34 : 創業者・藤倉善八(59歳)死去 : 松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社設立 : 松本留吉

創業者・藤倉善八(59歳)死去 : 松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社設立 : 松本留吉

創業者・藤倉善八(59歳)死去

松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社設立

1901年(明治34)5月、洋家具店(横浜)を営む末弟留吉に電線事業に専念の要請。

1901年(明治34)5月、留吉は洋家具店を処分し、善八の要請を受け入れ、上京する。

1901年(明治34)5月 : 洋家具店(横浜)を営む末弟留吉に電線事業に専念の要請

洋家具店を処分。

5月 : 洋家具店(横浜)を営む末弟留吉に電線事業に専念の要請

1901年5月、洋家具店を処分し、善八の要請を受け入れ、上京する。

善八が死去。

1901年10月、善八が死去する。

1901年(明治34)10月8日、藤倉善八が死去(59歳)。遺言により末弟松本留吉が後継者となる。

1901年(明治34)10月8日、留吉が死去(59歳)、遺言により末弟松本留吉が後継者となる。

1901年10月8日 : 死去(59歳)、遺言により末弟松本留吉が後継者となる

10月8日 : 死去(59歳)、遺言により末弟松本留吉が後継者となる

1901年(明治34)10月25日、藤倉電線護謨合名会社を設立し、その代表社員となった。

藤倉電線護謨合名会社を設立。

1901年10月25日、藤倉電線護謨合名会社を設立し、その代表社員となった。

1901年(明治34年)10月25日、藤倉電線護謨合名会社を設立。

1903年(明治36)、旋風で工場全壊。

工場全壊。

日本最初の逓信省ゴム被覆線指定工場となる : 旋風により千駄ヶ谷工場全壊するも3か月後に復旧

旋風で工場全壊。

日本最初の逓信省ゴム被覆線指定工場となる

旋風により千駄ヶ谷工場全壊するも3か月後に復旧

1903年、旋風で工場全壊。

藤倉電線株式会社となった。

松本留吉が代表社員となり藤倉電線株式会社設立 : 藤倉合名会社防水布製造所(現 藤倉コンポジット)設立

松本留吉が代表社員となり藤倉電線株式会社設立

藤倉合名会社防水布製造所(現 藤倉コンポジット)設立

1910年(明治43年)には電線事業の規模拡大の必要性から新社名「藤倉電線株式会社」となった。

1910年(明治43)3月18日、電線事業拡大の必要から電線事業を分離、藤倉電線株式会社が誕生する。

電線事業を分離し、藤倉電線株式会社が誕生。

藤倉電線株式会社が誕生。

1910年3月18日、電線事業拡大の必要から電線事業を分離、藤倉電線株式会社が誕生する。

熔銅・展延・製線作業開始

多層ゴム被覆線の特許取得 : のちの電線要覧の元祖となる「実用電線要覧」発行

多層ゴム被覆線の特許取得

のちの電線要覧の元祖となる「実用電線要覧」発行

知的障がい者施設「藤倉学園」設立(大島)

水運の利便性とより広い工場を求め、深川平久町の2万2000坪を買収し、工場建設着手

深川の熔銅工場完成

深川工場焼失。

野球部創部(1923)

深川工場完成(1923.1)

深川本社・工場完成 : 野球部発足 : 大震災で深川本社・工場全焼

関東大震災で深川工場焼失。

深川工場完成

深川本社・工場完成

野球部発足

大震災で深川本社・工場全焼

1923年、関東大震災で深川工場焼失。

野球部は1923年(大正12)、当時総務部長であった松本新太社長によって創られた。

1923年(大正12)、関東大震災で深川工場焼失。

1923年(大正12)9月1日、関東大震災が完成したばかりの深川工場を襲った。煙突が折れる程度で被害は軽微であったが、その夜、洲崎弁天町で出火した火災で延焼し、深川工場は全焼した。

関東大震災で工場焼失(1923.9)

関東大震災で深川工場全焼

深川工場復旧

1924年3、深川工場再建。

深川工場再建(1924.3)

深川工場再建

1925年(大正14)、工場横にグランドが作られる。練習は午後4時から、試合は休日のみ。

逓信省に国産絶縁紙による1200対ケーブル納入 : 鉄道省の指定工場となる

逓信省に国産絶縁紙による1200対ケーブル納入

鉄道省の指定工場となる

工場横にグランドが作られる。練習は仕事の終わる午後4時から、試合は休日のみと決められていた。

本社新館完成

ユニット型市内ケーブル製造開始 : OFケーブル製造開始 : 研究棟完成

ユニット型市内ケーブル製造開始

OFケーブル製造開始

研究棟完成

日本初となる飛行機用電線「藤光線」製造開始

社標を正式登録 : 鈴木工作所(現 スズキ技研)設立

社標を正式登録

鈴木工作所(現 スズキ技研)設立

藤倉型高周波同軸ケーブルの特許取得 : のちのフジクラ技報の前身となる「藤倉電線彙報」創刊

藤倉型高周波同軸ケーブルの特許取得

のちのフジクラ技報の前身となる「藤倉電線彙報」創刊

1938年(昭和13)12回大会で優勝。

松本留吉社長が関係する会社は45社であった。

都市対抗野球優勝(1938)

初代社長・松本留吉(71歳)死去 : 松本新太、2代社長に就任 : 第12回都市対抗野球優勝 : 藤倉化学工業(現 藤倉化成)設立

初代社長・松本留吉(71歳)死去

松本新太、2代社長に就任

第12回都市対抗野球優勝

藤倉化学工業(現 藤倉化成)設立

東京市代表として、第12回大会を土井投手の活躍などで優勝。

1938年(昭和13)3月、松本新太が2代社長に就任。

松本留吉社長の死去(1938.3)

松本留吉社長の死去により松本新太が2代社長に就任

松本留吉社長の死去により故人の長男松本新太が2代社長に就任した。

1938年(昭和13)3月24日、松本留吉社長が死去、71歳。

松本留吉が死去。

松本留吉死去。

1938年3月24日、松本留吉死去、71歳。

1938年(昭和13)3月24日、松本留吉死去。

1939年(昭和14)13回大会で優勝。

都市対抗野球優勝(1939)

第13回都市対抗野球優勝 : 藤倉航空工業(現 藤倉航装)設立

第13回都市対抗野球優勝

藤倉航空工業(現 藤倉航装)設立

第13回大会も出場し、吉田投手の好投などで連続優勝を成し遂げた。

アルミ電線製造開始

岡田顕三死去 : 藤倉型100kW同軸ケーブル製造開始

岡田顕三死去

藤倉型100kW同軸ケーブル製造開始

1944年(昭和19)に戦争疎開工場として創設した富士工場。

富士工場開設 : 米沢末広電纜工業(現 米沢電線)設立

富士工場開設

米沢末広電纜工業(現 米沢電線)設立

戦争疎開工場として富士工場を創設した。

東京大空襲により深川工場全壊 : 深川工場再建開始

東京大空襲により深川工場全壊

深川工場再建開始

東京大空襲で深川工場全壊(1945.3)

1945年(昭和20)3月10日、東京大空襲で深川工場は全壊。多くの犠牲者を出した。

東京大空襲で深川工場全壊

1945年9、深川工場再建、生産を開始。

復興途上の深川工場 1945.9に再建、生産を開始

深川工場再建、生産を開始

銅・材料などが極度に不足する中、9月に生産を再開させ、戦後の復興を成し遂げる。

石橋五郎、3代社長に就任

NHKに日本最初の24心TVカメラケーブル納入 : 日本発送電にACSR初納入 : ビニル電線製造開始 : キティ台風で深川工場が水害を受ける

NHKに日本最初の24心TVカメラケーブル納入

日本発送電にACSR初納入

ビニル電線製造開始

キティ台風で深川工場が水害を受ける

1953年(昭和28)7月、沼津工場として操業を開始した。

富士工場を沼津に移転させ1953年(昭和28)7月より沼津工場として操業を開始した。

1954年、沼津工場。

沼津工場(1954)

静岡県沼津市に沼津工場(現 沼津事業所)完成 : 社内報「藤倉電線ニュース」創刊 : 第25回都市対抗野球準優勝 : 超高圧実験室完成

沼津工場開設

静岡県沼津市に沼津工場(現 沼津事業所)完成

社内報「藤倉電線ニュース」創刊

第25回都市対抗野球準優勝

超高圧実験室完成

ワイヤハーネス製造開始

東京電力に日本初の154kV OFケーブル納入 : 沼津熔銅設立 : 東京都多摩市に多摩藤倉学園設立

東京電力に日本初の154kV OFケーブル納入

沼津熔銅設立

東京都多摩市に多摩藤倉学園設立

深川・沼津工場に次ぐ第3の工場を思い立ったのは岩戸景気さなかの1960年(昭和35)である。

兵藤嘉門、4代社長に就任

1964年(昭和39)に試運転が始まり

佐倉工場に日本初の66kV POFケーブルを布設 : 通信ケーブルのSZ撚り方式製造装置開発

佐倉工場に日本初の66kV POFケーブルを布設

通信ケーブルのSZ撚り方式製造装置開発

1964年(昭和39)に佐倉工場の試運転が始まった。

1965年(昭和40)から本格稼動した佐倉工場

佐倉工場(1965)

千葉県佐倉市に佐倉工場(現 佐倉事業所)完成 : 栗山久治、5代社長に就任 : ダイスタンプ式プリント配線板生産開始

佐倉工場開設

千葉県佐倉市に佐倉工場(現 佐倉事業所)完成

栗山久治、5代社長に就任

ダイスタンプ式プリント配線板生産開始

翌1965年(昭和40)から佐倉工場が本格稼動した。

1968年、深川工場。

霞が関ビルに本社事務所設置

1968年(昭和43)4月に日本最初の超高層ビルである霞が関ビル(地上36階、地下3階)が完成した。藤倉電線も霞が関ビルへの本社事務所移転を決定し、同ビル11階で業務を開始した

1968年(昭和43)4月に日本最初の超高層ビルである霞が関ビル(地上36階、地下3階)が完成した。藤倉電線も霞が関ビルへの本社事務所移転を決定し、同ビル11階で業務を開始した。

霞が関ビル(1968.4)

本社事務所霞が関ビルへ移転

東京電力に275kV OFケーブル納入

1970年(昭和45)に第4の工場となる鈴鹿工場を建設した

1970年(昭和45)に第4の工場となる鈴鹿工場を建設した。

鈴鹿工場(1970)

三重県鈴鹿市に鈴鹿工場(現 鈴鹿事業所)完成

鈴鹿工場開設

光ファイバの取り組みを進めていた

木野二郎、6代社長に就任 : 社史「88年史」刊行

木野二郎、6代社長に就任

社史「88年史」刊行

木野新社長は1974年(昭和49)年頭に非常事態宣言を行い、経費節減などの対策を示した。藤倉電線も輸出拡大を図る一方、電線周辺での事業拡大を図るために「機器電材」「海外」の2事業部を新設した。

1974年年頭に木野新社長が非常事態宣言を行い、経費節減などの対策を示した。藤倉電線は輸出拡大を図る一方、電線周辺での事業拡大を図るために「機器電材」「海外」の2事業部を新設した。

CVD法による光ファイバ母材製造の検討開始 : 275kV CVケーブル開発 : 協栄線材(現 フジクラハイオプト)設立

木野新社長は1974年年頭に非常事態宣言を行い、経費節減などの対策を示した。藤倉電線も輸出拡大を図る一方、電線周辺での事業拡大を図るために「機器電材」「海外」の2事業部を新設した。

CVD法による光ファイバ母材製造の検討開始

275kV CVケーブル開発

協栄線材(現 フジクラハイオプト)設立

木野新社長は年頭に非常事態宣言を行い、経費節減などの対策を示した。藤倉電線も輸出拡大を図る一方、電線周辺での事業拡大を図るために「機器電材」「海外」の2事業部を新設した。

1975年(昭和50)より電電公社と共同開発を行い

1975年より電電公社と共同開発を行った。

日本電信電話公社(現 NTT)、古河電気工業、住友電気工業、フジクラ間で光ファイバ共同研究協定締結 : 日本初、平型エレベータケーブル開発

日本電信電話公社(現 NTT)、古河電気工業、住友電気工業、フジクラ間で光ファイバ共同研究協定締結

日本初、平型エレベータケーブル開発

電電公社と共同開発を行った

電電公社と共同開発を行った。

1976年(昭和51)にはMCVD法により極低損失ファイバを開発し

1976年(昭和51)にはMCVD法により極低損失ファイバを開発し、長波長側に超低損失領域があることを発見(IEEEの論文賞受賞)した。

1976年にMCVD法により極低損失ファイバを開発し、長波長側に超低損失領域があることを発見し、IEEEの論文賞を受賞した。

日本電信電話公社(現 NTT)と世界初の長波長極低損失光ファイバ共同開発 : 東京電力袖ヶ浦火力に500kV OFケーブル納入 : 河村勝夫、7代社長に就任

1976年にMCVD法により極低損失ファイバを開発し、長波長側に超低損失領域があることを発見(IEEEの論文賞受賞)。

日本電信電話公社(現 NTT)と世界初の長波長極低損失光ファイバ共同開発

東京電力袖ヶ浦火力に500kV OFケーブル納入

河村勝夫、7代社長に就任

MCVD法により極低損失ファイバを開発し、長波長側に超低損失領域があることを発見(IEEEの論文賞受賞)した。

高抗張力線入りユニット型ファイバ開発 : 日本初、154kV CVケーブル実用化 : 本社事務所を五反田藤倉ビルに移転

高抗張力線入りユニット型ファイバ開発

日本初、154kV CVケーブル実用化

本社事務所を五反田藤倉ビルに移転

1977年(昭和52)10月、本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビルに移転した

1977年(昭和52)10月、本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビル(地上9階、地下1階)に移転した。

1977年10月、本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビルに移転した。

本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビルに移転した。

本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビル(地上9階、地下1階)に移転した。

本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビル(地上9階、地下1階)に移転した。当初は貸しビル用としての建築であったが、折からの不況により、期待していたテナントが見つからず、自社の本社事務所として使用することとなった。

リボン電線、フラットケーブル製造開始 : 電子機器用フレキシブルプリント配線板(FPC)の生産開始 : 世界初低損失光シングルモードファイバで0.27dB/km達成

リボン電線、フラットケーブル製造開始

電子機器用フレキシブルプリント配線板(FPC)の生産開始

世界初低損失光シングルモードファイバで0.27dB/km達成

1980年(昭和55年)には極低OHファイバを国産自主技術であるVAD法により世界に先駆け開発

1980年(昭和55年)には極低OHファイバを国産自主技術であるVAD法により世界に先駆け開発をし、その広い低損失領域の実現により、現在の波長多重通信へとつながった。

1980年に極低OHファイバをVAD法により開発した。

メタシールSPケーブル開発 : シングルモード用光ファイバ融着接続機開発

1980年に極低OHファイバを国産自主技術であるVAD法により世界に先駆け開発した。

極低OHファイバを国産自主技術であるVAD法により世界に先駆け開発をし、その広い低損失領域の実現により、現在の波長多重通信へとつながった。

メタシールSPケーブル開発

シングルモード用光ファイバ融着接続機開発

融雪用ヒートパイプ開発 : 日本初、光ファイバ複合架空地線開発

融雪用ヒートパイプ開発

日本初、光ファイバ複合架空地線開発

半導体圧力センサ開発 : 275kV CVケーブル納入 : 加賀谷誠一、8代社長に就任 : 加賀谷誠一、8代社長に就任 : 佐倉工場に光工場完成 : メンブレンスイッチ生産開始

半導体圧力センサ開発

275kV CVケーブル納入

加賀谷誠一、8代社長に就任

佐倉工場に光工場完成

メンブレンスイッチ生産開始

日本列島縦貫用光ファイバ納入布設開始 : Fヒータを生産開始。 : 世界最長となるヒートパイプ融雪システムを定山渓温泉に納入

日本列島縦貫用光ファイバ納入布設開始

Fヒータを生産開始。

世界最長となるヒートパイプ融雪システムを定山渓温泉に納入

タイ王国最初の製造拠点となるフジクラタイランド社設立

1984年(昭和59)8月、タイ王国にフジクラタイランド社を設立した

1984年(昭和59)8月、タイ王国にフジクラタイランド社を設立した。

1984年8月、タイ王国にフジクラタイランド社を設立した。

1984年8月にタイ王国にフジクラタイランド社を設立した。

タイ王国にフジクラタイランド社を設立した。

タイ王国にフジクラタイランド社を設立した。フジクラタイランド社はタイ王国現地法人の第一号の会社である。

創業100周年 : 世界初、コア直視型光ファイバ融着接続機開発 : 新社章制定 : 新社章制定

創業100周年を機に、電線にとらわれない企業イメージを作ろうと新呼称「フジクラ」を採用し、新社章を制定した。そのほかに100年史「フジクラ100年の歩み」の刊行、新基本方針の制定を行う。

創業100周年

世界初、コア直視型光ファイバ融着接続機開発

新社章制定

酸化物超電導材料の線材化に成功 : 佐倉工場に光エレクトロニクス研究所完成 : 社史「フジクラ100年の歩み」編纂

酸化物超電導材料の線材化に成功

佐倉工場に光エレクトロニクス研究所完成

社史「フジクラ100年の歩み」編纂

フジクラヨーロッパ社設立 : 世界初、CSトロリー線開発 : 世界初、多心光ファイバ融着接続機開発

フジクラヨーロッパ社設立

世界初、CSトロリー線開発

世界初、多心光ファイバ融着接続機開発

光線路監視システム納入開始

1990年(平成2)本社ビルが完成。深川に本社を統合し、営業、技術、本社機能等が一体となって業務を遂行できる体制が整った

1990年(平成2)本社ビルが完成。深川に本社を統合し、営業、技術、本社機能等が一体となって業務を遂行できる体制が整った。

1990年に本社ビルが完成し、深川に本社を統合した。

エルビウムドープ光ファイバ増幅器開発 : シスコム(現 フジクラソリューションズ)設立 : 深川新本社ビル完成

本社ビルが完成。深川に本社を統合し、営業、技術、本社機能等が一体となって業務を遂行できる体制が整った。

エルビウムドープ光ファイバ増幅器開発

シスコム(現 フジクラソリューションズ)設立

深川新本社ビル完成

光システム開発センター完成 : フジクラプレシジョン設立

光システム開発センター完成

フジクラプレシジョン設立

千葉県富津市に富津工場完成 : 千葉県富津市に富津工場完成 : 社名を「フジクラ」へ変更 : 社名を「フジクラ」へ変更 : 田中重信、9代社長に就任 : 田中重信、9代社長に就任

千葉県富津市に富津工場完成

社名を「フジクラ」へ変更

田中重信、9代社長に就任

1992年(平成4)10月、深川工場に代わる電力ケーブル製造・開発の新たな拠点として富津工場を建設し、社名変更と同じ日に操業を開始した

1992年(平成4)10月1日、藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った

1992年(平成4)10月、深川工場に代わる電力ケーブル製造・開発の新たな拠点として富津工場を建設し、社名変更と同じ日に操業を開始した。

1992年(平成4)10月1日、藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。

1992年10月1日、藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。

1992年10月、富津工場を建設し、操業を開始した。

1992年10月に富津工場を建設し、操業を開始した。

1992年10月1日に藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。

藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。

深川工場に代わる電力ケーブル製造・開発の新たな拠点として富津工場を建設し、社名変更と同じ日に操業を開始した。

藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。長年にわたり電線一辺倒であった藤倉電線も、電子材料や光システムといった新規事業分野に進出し、電線メーカから脱皮を遂げつつあった。こうした状況下にあって、電線事業の強化を図る一方、新規分野の進出に積極的に取り組み、電線にとらわれない企業イメージをアピールした新たなフジクラの出発である。

深川工場に代わる電力ケーブル製造・開発の新たな拠点として富津工場を建設し、社名変更と同じ日に操業を開始した。電力ケーブルの超高圧化、大容量、長尺化が進む中、富津工場は世界トップクラスの超高圧CVケーブル、OFケーブル、海底ケーブル製造の拠点としてユーザーニーズにフルに対応するために建設された最先端の工場である。

深川本社に東京R&Dセンター完成 : 深川本社に東京R&Dセンター完成 : 500kV CVケーブル、北本光複合海底ケーブル納入

深川本社に東京R&Dセンター完成

500kV CVケーブル、北本光複合海底ケーブル納入

超低損失多心コネクタ開発

普及型小型光ファイバアンプモジュール開発

関電・電発に世界最大規模の直流500kV OF海底ケーブル納入 : 世界初、リサイクルできるエコ電線開発

関電・電発に世界最大規模の直流500kV OF海底ケーブル納入

世界初、リサイクルできるエコ電線開発

辻川昭、10代社長に就任 : 辻川昭、10代社長に就任 : 新幹線用新信号ケーブル開発 : 500kV CVケーブル新京葉豊洲線納入

辻川昭、10代社長に就任

新幹線用新信号ケーブル開発

500kV CVケーブル新京葉豊洲線納入

2000年(平成12)、新たな都市「深川ギャザリア」が誕生した

2000年(平成12)、新たな都市「深川ギャザリア」が誕生した。

2000年に深川ギャザリアが誕生した。

深川工場跡地再開発「深川ギャザリア」誕生 : 深川工場跡地再開発「深川ギャザリア」誕生

2000年に深川工場跡地を再開発し、深川ギャザリアを誕生させた。

深川工場跡地を再開発し、新たな都市「深川ギャザリア」が誕生した。

深川工場跡地を再開発し、新たな都市「深川ギャザリア」が誕生した。歴史ある深川の地に活気ある街づくりを進め、「ビジネス」、「ショッピング」、「アメニティ」の3つの機能を持つ複合施設を展開している。

深川工場跡地再開発「深川ギャザリア」誕生

フジクラエレクトロニクス(上海)設立 : FTTH光製品商品化 : 自動車用着座センサ開発

フジクラエレクトロニクス(上海)設立

FTTH光製品商品化

自動車用着座センサ開発

高圧CV活線診断装置で澁澤賞受賞 : 地球深部探査船用ケーブル初納入 : ウエハレベルパッケージ生産開始

高圧CV活線診断装置で澁澤賞受賞

地球深部探査船用ケーブル初納入

ウエハレベルパッケージ生産開始

色素増感太陽電池開発 : 中国統括会社 藤倉貿易(上海)(現 藤倉(中国))設立

色素増感太陽電池開発

中国統括会社 藤倉貿易(上海)(現 藤倉(中国))設立

超高速エレベータケーブル納入

2005年(平成17)に創業120周年を迎えた

2005年(平成17)に創業120周年を迎えた。

2005年に創業120周年を迎えた。

創業120周年 : 大橋一彦、11代社長に就任 : 大橋一彦、11代社長に就任 : 新経営理念「MVCV」導入 : 古河電気工業と電力合弁会社のビスキャス設立 : 三菱電線工業と合弁会社「フジクラ・ダイヤケーブル」設立 : アメリカフジクラ(AFL)設立

2005年に創業120周年を迎え、新しい経営理念「MVCV」を制定した。

創業120周年を迎えた。新しい経営理念である「MVCV(ミッション・ビジョン・基本的価値)」を制定する。

絵本「飛ぶぞう。」を記念事業のひとつとして制作し、絵本を使い新経営理念を社員に伝えている。

創業120周年を迎えた。新しい経営理念である「MVCV(ミッション・ビジョン・基本的価値)」を制定する。絵本「飛ぶぞう。」を記念事業のひとつとして制作し、絵本を使い新経営理念を社員に伝えている。

創業120周年

大橋一彦、11代社長に就任

新経営理念「MVCV」導入

古河電気工業と電力合弁会社のビスキャス設立

三菱電線工業と合弁会社「フジクラ・ダイヤケーブル」設立

アメリカフジクラ(AFL)設立

スペインACEの株式60%を取得 : 創業120周年記念事業として経営理念をわかりやすく伝える絵本「飛ぶぞう。」を作成 : 創業120周年記念事業として経営理念をわかりやすく伝える絵本「飛ぶぞう。」を作成

スペインACEの株式60%を取得

創業120周年記念事業として経営理念をわかりやすく伝える絵本「飛ぶぞう。」を作成

本社ショールームリニューアル : 本社ショールームリニューアル : イットリウム系酸化物超電導線材、世界記録更新 : ファイバーテック株式会社買収

本社ショールームリニューアル

イットリウム系酸化物超電導線材、世界記録更新

ファイバーテック株式会社買収

スペインACEを子会社化

長浜洋一、12代社長に就任 : 長浜洋一、12代社長に就任

長浜洋一、12代社長に就任

タイ王国のグループ7社を統合し、フジクラエレクトロニクス(タイランド)(FETL)設立 : タイ王国のグループ7社を統合しFETL設立 : オプトエナジーを買収 : 深川工場跡地再開発「深川ギャザリア」完成 : ビオトープ「フジクラ 木場千年の森」オープン : ビオトープ「フジクラ 木場千年の森」オープン

タイ王国のグループ7社を統合し、フジクラエレクトロニクス(タイランド)(FETL)設立

オプトエナジーを買収

深川工場跡地再開発「深川ギャザリア」完成

ビオトープ「フジクラ 木場千年の森」オープン

タイ王国の洪水で工場被災

光ファイバの量産性に優れたVAD法がIEEEマイルストーン認定 : 光ファイバの量産性に優れたVAD法がIEEEマイルストーン認定

光ファイバの量産性に優れたVAD法がIEEEマイルストーン認定

伊藤雅彦、13代社長に就任 : 伊藤雅彦、13代社長に就任 : フジクラグループタイ王国洪水復興宣言 : フジクラ・ダイヤケーブルに産業用電線事業の製造事業および販売事業を統合 : 「フジクラグループ環境長期ビジョン2050を制定 : ビスキャスより配電線・架空送電線事業を譲渡

伊藤雅彦、13代社長に就任 : 伊藤雅彦、13代社長に就任 : フジクラグループタイ王国洪水復興宣言 : フジクラ・ダイヤケーブルに産業用電線事業の製造事事業および販売事業を統合 : 「フジクラグループ環境長期ビジョン2050を制定 : ビスキャスより配電線・架空送電線事業を譲渡

伊藤雅彦、13代社長に就任

フジクラグループタイ王国洪水復興宣言

フジクラ・ダイヤケーブルに産業用電線事業の製造事業および販売事業を統合

「フジクラグループ環境長期ビジョン2050を制定

ビスキャスより配電線・架空送電線事業を譲渡

「フジクラ 木場千年の森」が東京都「江戸のみどり登録緑地(優良緑地)」に登録 : 監査等委員会設置会社に移行

「フジクラ 木場千年の森」が東京都「江戸のみどり登録緑地(優良緑地)」に登録

監査等委員会設置会社に移行

イノベーションハブ「BRIDGE」を開設 : 世界最大心数の光ファイバケーブル(6,912心 Wrapping Tube Cable : Ⓡ : (WTC : Ⓡ : ))の販売開始

イノベーションハブ「BRIDGE」を開設

世界最大心数の光ファイバケーブル(6,912心 Wrapping Tube Cable : Ⓡ : (WTC : Ⓡ : ))の販売開始

イノベーションハブ「BRIDGE」を開設 : 世界最大心数の光ファイバケーブル(6,912心 Wrapping Tube Cable : Ⓡ : (WTC : Ⓡ : ))の販売開始

新型多心光ファイバ融着接続機90Rの販売開始 : スーパーコンピュータ「富岳」の冷却部品にコールドプレートが採用

新型多心光ファイバ融着接続機90Rの販売開始

スーパーコンピュータ「富岳」の冷却部品にコールドプレートが採用

タイ王国に電子部品製造会社「Fujikura Electronic Components (Thailand) Ltd.」を設立

タイ王国に電子部品製造会社「\"Fujikura Electronic Components (Thailand) Ltd.\"」を設立

岡田直樹、14代社長に就任 : フレキシブルプリント配線板の製造販売会社「株式会社フジクラプリントサーキット」を設立 : 送電線・メタルケーブル(ゴム絶縁電線含む)の製造販売会社「株式会社フジクラエナジーシステムズ」を設立 : 東京証券取引所プライム市場へ移行 : 香港に電子関連製品の販売会社「藤倉香港貿易有限公司」を設立

岡田直樹、14代社長に就任

フレキシブルプリント配線板の製造販売会社「株式会社フジクラプリントサーキット」を設立

送電線・メタルケーブル(ゴム絶縁電線含む)の製造販売会社「株式会社フジクラエナジーシステムズ」を設立

東京証券取引所プライム市場へ移行

香港に電子関連製品の販売会社「藤倉香港貿易有限公司」を設立

レアアース系高温超電導線材を小型核融合炉向けに増産 : レアアース系高温超電導線材 : 核融合炉の開発において世界をリードする米CFS社にレアアース系高温超電導線材納入開始

レアアース系高温超電導線材を小型核融合炉向けに増産

レアアース系高温超電導線材納入開始

レアアース系高温超電導線材を小型核融合炉向けに増産 : 核融合炉の開発において世界をリードする米CFS社にレアアース系高温超電導線材納入開始

核融合炉の開発において世界をリードする米CFS社にレアアース系高温超電導線材納入開始

創業以来初の全国テレビCM放送開始

§07

ニュース

5 ARTICLES

飯島CFOが経理財務フォーラムに出演 ↗

「第5回 経理財務イノベーションフォーラム」が2026年10月22日にオンライン開催され、代表取締役CFOの飯島和人が特別インタビュー映像に出演します。「事業サイドに入り込む、これからのCFO像」をテーマに、財務と事業の一体化に向けた取り組みや、大規模投資の意思決定を支える仕組みを紹介します。

日興フロッギーに岡田直樹CEOのインタビュー掲載 ↗

日興フロッギーは、代表取締役社長CEOの岡田直樹へのインタビュー記事を掲載しました。記事では、生成AIの普及に伴うデータセンタ需要の拡大や、独自技術の光ファイバケーブル開発について紹介しています。インタビューは前後編の2部構成です。

藤倉電線、核融合発電ワールドに出展 ↗

藤倉電線は2026年9月9日から11日まで幕張メッセで開催されるFUSION POWER WORLD -核融合発電ワールド- 2026に出展します。同社は高温超電導線材とその技術を紹介します。

藤倉電線、3つのESG指数に継続選定 ↗

藤倉電線は、FTSE Russellが設計した3つのESG投資指数に継続して選定されました。これらの指数は、コーポレートガバナンスや気候変動などの実績に基づいています。

不正アクセスに関する個人情報保護法報告(最終報) ↗

2024年7月2日、保守委託先が管理するVPN装置を通じて、藤倉電線株式会社の情報ネットワークへの不正アクセスと情報流出の痕跡が確認されました。対象となったサーバの一部には個人情報が含まれており、同社は調査を完了したとして、個人情報保護法に基づく最終報告を公表しました。

§09

出典・更新

SOURCES
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