| 1883-11-02 |
1883年(明治16)11月3日、日本橋通り電信局のバルコニーのアーク燈を末弟留吉と見に行き、電気に興味を抱く。善八41歳、留吉16歳で、アーク燈の光に感嘆し、電線製造に興味を持つ。 |
| 1883-11-02 |
1883年(明治16)11月3日、日本橋通り電信局のバルコニーでアーク灯を見に行き、電気に興味を抱く。 |
| 1884年04月 |
1884年(明治17)5月、新富座で9代目市川団十郎に口上を頼み、注文が殺到し、根掛け事業が成功する。新製品に『市川掛け』と命名し、全国から注文が殺到。 |
| 1884年04月 |
1884年(明治17)5月、新富座で9代目市川団十郎に口上を頼む。注文が殺到し、根掛け事業が成功する。 |
| 1884年 |
1885年 明治18年 : 藤倉善八、絹・綿巻線製造開始 : 藤倉善八 |
| 1884年 |
明治18年 : 藤倉善八、絹・綿巻線製造開始 : 藤倉善八 |
| 1885年01月 |
1885年(明治18)2月、神田淡路町1丁目1番地で絹・綿巻線の製造を開始。藤倉善八、妻いね、春吉ら12名が従業員で、自宅兼工場を拡大。 |
| 1885年01月 |
1885年(明治18)2月、神田淡路町1丁目1番地で絹・綿巻線の製造を開始した。 |
| 1885年 |
1886年 明治19年 : 藤倉留吉、渡米 |
| 1885年 |
明治19年 : 藤倉留吉、渡米 |
| 1886年 |
1887年(明治20)米国より大型編組機5台を輸入。 |
| 1886年 |
1887年頃、左奥の林の向こうに工場はあった。 |
| 1886年 |
1887年 明治20年 : 藤倉善八、米国から大型編組機5台輸入 |
| 1886年 |
1887年(明治20)米国より大型編組機5台を輸入。 |
| 1886年 |
明治20年 : 藤倉善八、米国から大型編組機5台輸入 |
| 1887年 |
1888年 明治21年 : 新宿御料地内の製糸場を借り受け工場移転 : 東京線、パラフィン線、コード類の製造開始 : ゴム線の研究に着手 |
| 1887年 |
明治21年 : 新宿御料地内の製糸場を借り受け工場移転 : 東京線、パラフィン線、コード類の製造開始 : ゴム線の研究に着手 |
| 1888年04月 |
1888年(明治21)4月、新宿御料地内の製糸場跡を借りうける(新宿工場)。 |
| 1888年04月 |
1888年(明治21)4月、宮内省御料地内(新宿御苑)の製糸場を借り受け新宿工場を開設。玉川上水から引く小川に水車があり、その動力を使う。工場は水車の両側に2棟の木造、瓦葺き、レンガ敷きの建物(15m×32m)であった。設備は組紐機械8台、電線編組機20台、従業員は5~6名。東京線、パラフィン線ランプコードの製造を始める。ゴム線の研究を開始する。 |
| 1888年04月 |
1888年(明治21)4月、新宿御料地内の製糸場跡を借りうける(新宿工場)。 |
| 1890年 |
1890年 明治23年 : 藤倉留吉、米国より帰国 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転 |
| 1890年 |
明治23 : 藤倉留吉、米国より帰国 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転 |
| 1890年09月 |
1890年(明治23)9月、工場を千駄ヶ谷900番地に移転(千駄ヶ谷工場①)。 |
| 1890年09月 |
1890年(明治23)9月、千駄ヶ谷900番地の紀州徳川家の土地を買収して新工場を建てた。ここにも玉川上水を利用する水車があって、より大きく、より強力であった。水車動力でゴムローラを動かし、ゴム線の製造が始まった。その頃、ゴム線では国産品はなく、専ら高い外国製が使われていた。 |
| 1890年09月 |
1890年(明治23)9月、工場を千駄ヶ谷900番地に移転(千駄ヶ谷工場①)。 |
| 1893年 |
1893年 明治26年 : 日本で初めてゴム被覆線の製造開始 |
| 1893年 |
明治26 : 日本で初めてゴム被覆線の製造開始 |
| 1896年 |
1896年、千駄ヶ谷工場②。 |
| 1896年 |
1896年 明治29年 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 岡田顕三、電線製造技術修得のため渡米 |
| 1896年 |
明治29 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 岡田顕三、電線製造技術修得のため渡米 |
| 1896年06月 |
1896年(明治29)6月、工場を千駄ヶ谷922番地に移転(千駄ヶ谷工場②)。 |
| 1896年06月 |
1896年(明治29)6月、工場を千駄ヶ谷922番地に移転(千駄ヶ谷工場②)。 |
| 1900年 |
1900年(明治33)藤倉合資会社設立案を作成。 |
| 1900年 |
1900年(明治33)藤倉合資会社設立案を作成。 |
| 1900年08月 |
1900年(明治33)8月、帰国した岡田顕三は、技術面でもっとも重要な役目を果たすのである。 |
| 1901年 |
1901年 明治34年 : 創業者・藤倉善八(59歳)死去 : 松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社設立 |
| 1901年 |
明治34 : 創業者・藤倉善八(59歳)死去 : 松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社設立 : 松本留吉 |
| 1901年05月 |
1901年(明治34)5月、洋家具店(横浜)を営む末弟留吉に電線事業に専念の要請。 |
| 1901年05月 |
1901年(明治34)5月、留吉は洋家具店を処分し、善八の要請を受け入れ、上京する。 |
| 1901年05月 |
1901年(明治34)5月、洋家具店(横浜)を営む末弟留吉に電線事業に専念の要請。 |
| 1901-10-08 |
1901年(明治34)10月8日、藤倉善八が死去(59歳)。遺言により末弟松本留吉が後継者となる。 |
| 1901-10-08 |
1901年(明治34)10月8日、留吉が死去(59歳)、遺言により末弟松本留吉が後継者となる。 |
| 1901-10-25 |
1901年(明治34)10月25日、藤倉電線護謨合名会社を設立し、その代表社員となった。 |
| 1903年 |
1903年(明治36)、旋風で工場全壊。 |
| 1910-03-18 |
1910年(明治43)3月18日、電線事業拡大の必要から電線事業を分離、藤倉電線株式会社が誕生する。 |
| 1923-09-01 |
1923年(大正12)9月1日、関東大震災が完成したばかりの深川工場を襲った。煙突が折れる程度で被害は軽微であったが、その夜、洲崎弁天町で出火した火災で延焼し、深川工場は全焼した。 |
| 1924年03月 |
1924年3、深川工場再建。 |
| 1925年 |
1925年(大正14)、工場横にグランドが作られる。練習は午後4時から、試合は休日のみ。 |
| 1938年 |
1938年(昭和13)12回大会で優勝。 |
| 1938年03月 |
1938年(昭和13)3月、松本新太が2代社長に就任。 |
| 1938-03-24 |
1938年(昭和13)3月24日、松本留吉社長が死去、71歳。 |
| 1939年 |
1939年(昭和14)13回大会で優勝。 |
| 1944年 |
1944年(昭和19)に戦争疎開工場として創設した富士工場。 |
| 1945-03-10 |
1945年(昭和20)3月10日、東京大空襲で深川工場は全壊。多くの犠牲者を出した。 |
| 1945年09月 |
1945年9、深川工場再建、生産を開始。 |
| 1953年07月 |
1953年(昭和28)7月、沼津工場として操業を開始した。 |
| 1954年 |
1954年、沼津工場。 |
| 1964年 |
1964年(昭和39)に試運転が始まり |
| 1964年 |
1964年(昭和39)に試運転が始まり |
| 1965年 |
1965年(昭和40)から本格稼動した佐倉工場 |
| 1965年 |
1965年(昭和40)から本格稼動した佐倉工場 |
| 1968年 |
1968年、深川工場。 |
| 1968年04月 |
1968年(昭和43)4月に日本最初の超高層ビルである霞が関ビル(地上36階、地下3階)が完成した。藤倉電線も霞が関ビルへの本社事務所移転を決定し、同ビル11階で業務を開始した |
| 1968年04月 |
1968年(昭和43)4月に日本最初の超高層ビルである霞が関ビル(地上36階、地下3階)が完成した。藤倉電線も霞が関ビルへの本社事務所移転を決定し、同ビル11階で業務を開始した。 |
| 1970年 |
1970年(昭和45)に第4の工場となる鈴鹿工場を建設した |
| 1970年 |
1970年(昭和45)に第4の工場となる鈴鹿工場を建設した。 |
| 1974年 |
木野新社長は1974年(昭和49)年頭に非常事態宣言を行い、経費節減などの対策を示した。藤倉電線も輸出拡大を図る一方、電線周辺での事業拡大を図るために「機器電材」「海外」の2事業部を新設した。 |
| 1975年 |
1975年(昭和50)より電電公社と共同開発を行い |
| 1975年 |
1975年(昭和50)より電電公社と共同開発を行い |
| 1976年 |
1976年(昭和51)にはMCVD法により極低損失ファイバを開発し |
| 1976年 |
1976年(昭和51)にはMCVD法により極低損失ファイバを開発し、長波長側に超低損失領域があることを発見(IEEEの論文賞受賞)した。 |
| 1977年10月 |
1977年(昭和52)10月、本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビルに移転した |
| 1977年10月 |
1977年(昭和52)10月、本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビル(地上9階、地下1階)に移転した。 |
| 1980年 |
1980年(昭和55年)には極低OHファイバを国産自主技術であるVAD法により世界に先駆け開発 |
| 1980年 |
1980年(昭和55年)には極低OHファイバを国産自主技術であるVAD法により世界に先駆け開発をし、その広い低損失領域の実現により、現在の波長多重通信へとつながった。 |
| 1984年08月 |
1984年(昭和59)8月、タイ王国にフジクラタイランド社を設立した |
| 1984年08月 |
1984年(昭和59)8月、タイ王国にフジクラタイランド社を設立した。 |
| 1990年 |
1990年(平成2)本社ビルが完成。深川に本社を統合し、営業、技術、本社機能等が一体となって業務を遂行できる体制が整った |
| 1990年 |
1990年(平成2)本社ビルが完成。深川に本社を統合し、営業、技術、本社機能等が一体となって業務を遂行できる体制が整った。 |
| 1992年10月 |
1992年(平成4)10月、深川工場に代わる電力ケーブル製造・開発の新たな拠点として富津工場を建設し、社名変更と同じ日に操業を開始した |
| 1992-10-01 |
1992年(平成4)10月1日、藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った |
| 1992年10月 |
1992年(平成4)10月、深川工場に代わる電力ケーブル製造・開発の新たな拠点として富津工場を建設し、社名変更と同じ日に操業を開始した。 |
| 1992-10-01 |
1992年(平成4)10月1日、藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。 |
| 2000年 |
2000年(平成12)、新たな都市「深川ギャザリア」が誕生した |
| 2000年 |
2000年(平成12)、新たな都市「深川ギャザリア」が誕生した。 |
| 2005年 |
2005年(平成17)に創業120周年を迎えた |
| 2005年 |
2005年(平成17)に創業120周年を迎えた。 |