| 1868-11-27 |
栃木県植野村(現 佐野市)船津川で誕生。創業者藤倉善八の末弟。 |
| 1874年 |
東京へ進出し神田明神下に居を定める。 |
| 1880年 |
根掛けの製造を始めた。 |
| 1880年 |
「根掛け」の製造を始めた。 |
| 1881年 |
銀座で第1回デモンストレーションが行われた。 |
| 1882年 |
上京。 |
| 1883年10月 |
2回目が日本橋通りで行われ、記録的な見物人を集めた。 |
| 1883-11-02 |
1883年(明治16)11月3日、日本橋通り電信局のバルコニーのアーク燈を末弟留吉と見に行き、電気に興味を抱く。善八41歳、留吉16歳で、アーク燈の光に感嘆し、電線製造に興味を持つ。 |
| 1883-11-02 |
1883年(明治16)11月3日、日本橋通り電信局のバルコニーでアーク灯を見に行き、電気に興味を抱く。 |
| 1883-11-02 |
1883年(明治16)11月3日 : 日本橋通り電信局のバルコニーのアーク燈を末弟留吉と見に行き、電気に興味を抱く |
| 1883-11-02 |
日本橋通り電信局のバルコニーのアーク燈を末弟留吉と見に行き、電気に興味を抱く |
| 1884年04月 |
1884年(明治17)5月、新富座で9代目市川団十郎に口上を頼み、注文が殺到し、根掛け事業が成功する。新製品に『市川掛け』と命名し、全国から注文が殺到。 |
| 1884年04月 |
1884年(明治17)5月、新富座で9代目市川団十郎に口上を頼む。注文が殺到し、根掛け事業が成功する。 |
| 1884年04月 |
1884年(明治17)5月 : 新富座で9代目市川団十郎に口上を頼む : 注文が殺到し、根掛け事業が成功する |
| 1884年 |
1885年 明治18年 : 藤倉善八、絹・綿巻線製造開始 : 藤倉善八 |
| 1884年 |
明治18年 : 藤倉善八、絹・綿巻線製造開始 : 藤倉善八 |
| 1884年 |
1885年、藤倉善八が絹・綿巻線製造を開始した。 |
| 1884年 |
藤倉善八が絹・綿巻線製造を開始した。 |
| 1884年 |
1885 年の創業から120 年余り。 |
| 1885年01月 |
1885年(明治18)2月、神田淡路町1丁目1番地で絹・綿巻線の製造を開始。藤倉善八、妻いね、春吉ら12名が従業員で、自宅兼工場を拡大。 |
| 1885年01月 |
1885年(明治18)2月、神田淡路町1丁目1番地で絹・綿巻線の製造を開始した。 |
| 1885年01月 |
1885年(明治18)2月 : 絹・綿巻線製造開始 : 弟春吉と鉄製編組機械を工夫製造し、生産効率改善 |
| 1885年01月 |
藤倉善八が絹・綿巻線の製造に乗り出し、神田淡路町1丁目1番地で絹・綿巻線の製造を開始した。 |
| 1885年01月 |
2月 : 絹・綿巻線製造開始 : 弟春吉と鉄製編組機械を工夫製造し、生産効率改善 |
| 1885年 |
1886年 明治19年 : 藤倉留吉、渡米 |
| 1885年 |
明治19年 : 藤倉留吉、渡米 |
| 1885年 |
1886年、藤倉留吉が渡米した。 |
| 1885年 |
藤倉留吉が渡米した。 |
| 1886年06月 |
米国に出発。 |
| 1886年 |
1887年(明治20)米国より大型編組機5台を輸入。 |
| 1886年 |
1887年頃、左奥の林の向こうに工場はあった。 |
| 1886年 |
1887年 明治20年 : 藤倉善八、米国から大型編組機5台輸入 |
| 1886年 |
明治20年 : 藤倉善八、米国から大型編組機5台輸入 |
| 1886年 |
1887年(明治20) : 米国より大型編組機5台を輸入 |
| 1886年 |
1887年、藤倉善八が米国から大型編組機5台を輸入した。 |
| 1886年 |
米国より大型編組機5台を輸入 |
| 1886年 |
藤倉善八が米国から大型編組機5台を輸入した。 |
| 1887年 |
1888年 明治21年 : 新宿御料地内の製糸場を借り受け工場移転 : 東京線、パラフィン線、コード類の製造開始 : ゴム線の研究に着手 |
| 1887年 |
明治21年 : 新宿御料地内の製糸場を借り受け工場移転 : 東京線、パラフィン線、コード類の製造開始 : ゴム線の研究に着手 |
| 1887年 |
1888年、工場を新宿御料地に移転し、東京線、パラフィン線、コード類の製造を開始し、ゴム線の研究に着手した。 |
| 1887年 |
新宿御料地内の製糸場を借り受け工場を移転し、東京線、パラフィン線、コード類の製造を開始し、ゴム線の研究に着手した。 |
| 1888年04月 |
1888年(明治21)4月、新宿御料地内の製糸場跡を借りうける(新宿工場)。 |
| 1888年04月 |
1888年(明治21)4月、宮内省御料地内(新宿御苑)の製糸場を借り受け新宿工場を開設。玉川上水から引く小川に水車があり、その動力を使う。工場は水車の両側に2棟の木造、瓦葺き、レンガ敷きの建物(15m×32m)であった。設備は組紐機械8台、電線編組機20台、従業員は5~6名。東京線、パラフィン線ランプコードの製造を始める。ゴム線の研究を開始する。 |
| 1888年04月 |
1888年(明治21)4月 : 新宿御料地内の製糸場跡を借りうける(新宿工場) |
| 1888年04月 |
新宿工場を開設。 |
| 1888年04月 |
4月 : 新宿御料地内の製糸場跡を借りうける(新宿工場) |
| 1890年 |
1890年 明治23年 : 藤倉留吉、米国より帰国 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転 |
| 1890年 |
明治23 : 藤倉留吉、米国より帰国 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転 |
| 1890年 |
松本家の養子となる。 |
| 1890年 |
1890年、藤倉留吉が米国から帰国し、工場を千駄ヶ谷900番地に移転した。 |
| 1890年 |
藤倉留吉が米国より帰国し、工場を千駄ヶ谷900番地に移転した。 |
| 1890年07月 |
帰国。 |
| 1890年09月 |
1890年(明治23)9月、工場を千駄ヶ谷900番地に移転(千駄ヶ谷工場①)。 |
| 1890年09月 |
1890年(明治23)9月、千駄ヶ谷900番地の紀州徳川家の土地を買収して新工場を建てた。ここにも玉川上水を利用する水車があって、より大きく、より強力であった。水車動力でゴムローラを動かし、ゴム線の製造が始まった。その頃、ゴム線では国産品はなく、専ら高い外国製が使われていた。 |
| 1890年09月 |
1890年(明治23)9月、工場を千駄ヶ谷900番地に移転(千駄ヶ谷工場①)。 |
| 1890年09月 |
1890年(明治23)9月 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転(千駄ヶ谷工場①) |
| 1890年09月 |
千駄ヶ谷900番地の紀州徳川家の土地を買収して新工場を建てた。 |
| 1890年09月 |
9月 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転(千駄ヶ谷工場①) |
| 1893年 |
1893年 明治26年 : 日本で初めてゴム被覆線の製造開始 |
| 1893年 |
明治26 : 日本で初めてゴム被覆線の製造開始 |
| 1893年 |
1893年、日本で初めてゴム被覆線の製造を開始した。 |
| 1893年 |
日本で初めてゴム被覆線の製造を開始した。 |
| 1896年 |
1896年、千駄ヶ谷工場②。 |
| 1896年 |
1896年 明治29年 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 岡田顕三、電線製造技術修得のため渡米 |
| 1896年 |
明治29 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 岡田顕三、電線製造技術修得のため渡米 |
| 1896年 |
工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 岡田顕三、電線製造技術修得のため渡米 |
| 1896年 |
工場を千駄ヶ谷922番地に移転 |
| 1896年 |
岡田顕三、電線製造技術修得のため渡米 |
| 1896年06月 |
1896年(明治29)6月、工場を千駄ヶ谷922番地に移転(千駄ヶ谷工場②)。 |
| 1896年06月 |
1896年(明治29)6月、工場を千駄ヶ谷922番地に移転(千駄ヶ谷工場②)。 |
| 1896年06月 |
1896年(明治29)6月 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転(千駄ヶ谷工場②) |
| 1896年06月 |
6月 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転(千駄ヶ谷工場②) |
| 1900年 |
1900年(明治33)藤倉合資会社設立案を作成。 |
| 1900年 |
1900年(明治33) : 藤倉合資会社設立案を作成 |
| 1900年 |
藤倉合資会社設立案を作成 |
| 1900年08月 |
1900年(明治33)8月、帰国した岡田顕三は、技術面でもっとも重要な役目を果たすのである。 |
| 1900年08月 |
岡田顕三が帰国。 |
| 1900年08月 |
帰国した岡田顕三。 |
| 1901年 |
1901年 明治34年 : 創業者・藤倉善八(59歳)死去 : 松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社設立 |
| 1901年 |
明治34 : 創業者・藤倉善八(59歳)死去 : 松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社設立 : 松本留吉 |
| 1901年 |
創業者・藤倉善八(59歳)死去 : 松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社設立 : 松本留吉 |
| 1901年 |
創業者・藤倉善八(59歳)死去 |
| 1901年 |
松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社設立 |
| 1901年05月 |
1901年(明治34)5月、洋家具店(横浜)を営む末弟留吉に電線事業に専念の要請。 |
| 1901年05月 |
1901年(明治34)5月、留吉は洋家具店を処分し、善八の要請を受け入れ、上京する。 |
| 1901年05月 |
1901年(明治34)5月 : 洋家具店(横浜)を営む末弟留吉に電線事業に専念の要請 |
| 1901年05月 |
洋家具店を処分。 |
| 1901年05月 |
5月 : 洋家具店(横浜)を営む末弟留吉に電線事業に専念の要請 |
| 1901年10月 |
善八が死去。 |
| 1901-10-08 |
1901年(明治34)10月8日、藤倉善八が死去(59歳)。遺言により末弟松本留吉が後継者となる。 |
| 1901-10-08 |
1901年(明治34)10月8日、留吉が死去(59歳)、遺言により末弟松本留吉が後継者となる。 |
| 1901-10-08 |
1901年10月8日 : 死去(59歳)、遺言により末弟松本留吉が後継者となる |
| 1901-10-08 |
10月8日 : 死去(59歳)、遺言により末弟松本留吉が後継者となる |
| 1901-10-25 |
1901年(明治34)10月25日、藤倉電線護謨合名会社を設立し、その代表社員となった。 |
| 1901-10-25 |
藤倉電線護謨合名会社を設立。 |
| 1903年 |
1903年(明治36)、旋風で工場全壊。 |
| 1903年 |
工場全壊。 |
| 1903年 |
日本最初の逓信省ゴム被覆線指定工場となる : 旋風により千駄ヶ谷工場全壊するも3か月後に復旧 |
| 1903年 |
旋風で工場全壊。 |
| 1903年 |
日本最初の逓信省ゴム被覆線指定工場となる |
| 1903年 |
旋風により千駄ヶ谷工場全壊するも3か月後に復旧 |
| 1910年 |
藤倉電線株式会社となった。 |
| 1910年 |
松本留吉が代表社員となり藤倉電線株式会社設立 : 藤倉合名会社防水布製造所(現 藤倉コンポジット)設立 |
| 1910年 |
松本留吉が代表社員となり藤倉電線株式会社設立 |
| 1910年 |
藤倉合名会社防水布製造所(現 藤倉コンポジット)設立 |
| 1910-03-18 |
1910年(明治43)3月18日、電線事業拡大の必要から電線事業を分離、藤倉電線株式会社が誕生する。 |
| 1910-03-18 |
電線事業を分離し、藤倉電線株式会社が誕生。 |
| 1910-03-18 |
藤倉電線株式会社が誕生。 |
| 1916年 |
熔銅・展延・製線作業開始 |
| 1918年 |
多層ゴム被覆線の特許取得 : のちの電線要覧の元祖となる「実用電線要覧」発行 |
| 1918年 |
多層ゴム被覆線の特許取得 |
| 1918年 |
のちの電線要覧の元祖となる「実用電線要覧」発行 |
| 1919年 |
知的障がい者施設「藤倉学園」設立(大島) |
| 1920年 |
水運の利便性とより広い工場を求め、深川平久町の2万2000坪を買収し、工場建設着手 |
| 1921年 |
深川の熔銅工場完成 |
| 1923年 |
深川工場焼失。 |
| 1923年 |
野球部創部(1923) |
| 1923年01月 |
深川工場完成(1923.1) |
| 1923年 |
深川本社・工場完成 : 野球部発足 : 大震災で深川本社・工場全焼 |
| 1923年 |
関東大震災で深川工場焼失。 |
| 1923年01月 |
深川工場完成 |
| 1923年 |
深川本社・工場完成 |
| 1923年 |
野球部発足 |
| 1923年 |
大震災で深川本社・工場全焼 |
| 1923-09-01 |
1923年(大正12)9月1日、関東大震災が完成したばかりの深川工場を襲った。煙突が折れる程度で被害は軽微であったが、その夜、洲崎弁天町で出火した火災で延焼し、深川工場は全焼した。 |
| 1923年09月 |
関東大震災で工場焼失(1923.9) |
| 1923-09-01 |
関東大震災で深川工場全焼 |
| 1924年 |
深川工場復旧 |
| 1924年03月 |
1924年3、深川工場再建。 |
| 1924年03月 |
深川工場再建(1924.3) |
| 1924年03月 |
深川工場再建 |
| 1925年 |
1925年(大正14)、工場横にグランドが作られる。練習は午後4時から、試合は休日のみ。 |
| 1925年 |
逓信省に国産絶縁紙による1200対ケーブル納入 : 鉄道省の指定工場となる |
| 1925年 |
逓信省に国産絶縁紙による1200対ケーブル納入 |
| 1925年 |
鉄道省の指定工場となる |
| 1929年 |
本社新館完成 |
| 1930年 |
ユニット型市内ケーブル製造開始 : OFケーブル製造開始 : 研究棟完成 |
| 1930年 |
ユニット型市内ケーブル製造開始 |
| 1930年 |
OFケーブル製造開始 |
| 1930年 |
研究棟完成 |
| 1931年 |
日本初となる飛行機用電線「藤光線」製造開始 |
| 1933年 |
社標を正式登録 : 鈴木工作所(現 スズキ技研)設立 |
| 1933年 |
社標を正式登録 |
| 1933年 |
鈴木工作所(現 スズキ技研)設立 |
| 1935年 |
藤倉型高周波同軸ケーブルの特許取得 : のちのフジクラ技報の前身となる「藤倉電線彙報」創刊 |
| 1935年 |
藤倉型高周波同軸ケーブルの特許取得 |
| 1935年 |
のちのフジクラ技報の前身となる「藤倉電線彙報」創刊 |
| 1938年 |
1938年(昭和13)12回大会で優勝。 |
| 1938年 |
松本留吉社長が関係する会社は45社であった。 |
| 1938年 |
都市対抗野球優勝(1938) |
| 1938年 |
初代社長・松本留吉(71歳)死去 : 松本新太、2代社長に就任 : 第12回都市対抗野球優勝 : 藤倉化学工業(現 藤倉化成)設立 |
| 1938年 |
初代社長・松本留吉(71歳)死去 |
| 1938年 |
松本新太、2代社長に就任 |
| 1938年 |
第12回都市対抗野球優勝 |
| 1938年 |
藤倉化学工業(現 藤倉化成)設立 |
| 1938年03月 |
1938年(昭和13)3月、松本新太が2代社長に就任。 |
| 1938年03月 |
松本留吉社長の死去(1938.3) |
| 1938年03月 |
松本留吉社長の死去により松本新太が2代社長に就任 |
| 1938-03-24 |
1938年(昭和13)3月24日、松本留吉社長が死去、71歳。 |
| 1938-03-24 |
松本留吉が死去。 |
| 1938-03-24 |
松本留吉死去。 |
| 1939年 |
1939年(昭和14)13回大会で優勝。 |
| 1939年 |
都市対抗野球優勝(1939) |
| 1939年 |
第13回都市対抗野球優勝 : 藤倉航空工業(現 藤倉航装)設立 |
| 1939年 |
第13回都市対抗野球優勝 |
| 1939年 |
藤倉航空工業(現 藤倉航装)設立 |
| 1941年 |
アルミ電線製造開始 |
| 1943年 |
岡田顕三死去 : 藤倉型100kW同軸ケーブル製造開始 |
| 1943年 |
岡田顕三死去 |
| 1943年 |
藤倉型100kW同軸ケーブル製造開始 |
| 1944年 |
1944年(昭和19)に戦争疎開工場として創設した富士工場。 |
| 1944年 |
富士工場開設 : 米沢末広電纜工業(現 米沢電線)設立 |
| 1944年 |
富士工場開設 |
| 1944年 |
米沢末広電纜工業(現 米沢電線)設立 |
| 1945年 |
東京大空襲により深川工場全壊 : 深川工場再建開始 |
| 1945年 |
東京大空襲により深川工場全壊 |
| 1945年 |
深川工場再建開始 |
| 1945年03月 |
東京大空襲で深川工場全壊(1945.3) |
| 1945-03-10 |
1945年(昭和20)3月10日、東京大空襲で深川工場は全壊。多くの犠牲者を出した。 |
| 1945-03-10 |
東京大空襲で深川工場全壊 |
| 1945年09月 |
1945年9、深川工場再建、生産を開始。 |
| 1945年09月 |
復興途上の深川工場 1945.9に再建、生産を開始 |
| 1945年09月 |
深川工場再建、生産を開始 |
| 1948年 |
石橋五郎、3代社長に就任 |
| 1949年 |
NHKに日本最初の24心TVカメラケーブル納入 : 日本発送電にACSR初納入 : ビニル電線製造開始 : キティ台風で深川工場が水害を受ける |
| 1949年 |
NHKに日本最初の24心TVカメラケーブル納入 |
| 1949年 |
日本発送電にACSR初納入 |
| 1949年 |
ビニル電線製造開始 |
| 1949年 |
キティ台風で深川工場が水害を受ける |
| 1953年07月 |
1953年(昭和28)7月、沼津工場として操業を開始した。 |
| 1954年 |
1954年、沼津工場。 |
| 1954年 |
沼津工場(1954) |
| 1954年 |
静岡県沼津市に沼津工場(現 沼津事業所)完成 : 社内報「藤倉電線ニュース」創刊 : 第25回都市対抗野球準優勝 : 超高圧実験室完成 |
| 1954年 |
沼津工場開設 |
| 1954年 |
静岡県沼津市に沼津工場(現 沼津事業所)完成 |
| 1954年 |
社内報「藤倉電線ニュース」創刊 |
| 1954年 |
第25回都市対抗野球準優勝 |
| 1954年 |
超高圧実験室完成 |
| 1957年 |
ワイヤハーネス製造開始 |
| 1958年 |
東京電力に日本初の154kV OFケーブル納入 : 沼津熔銅設立 : 東京都多摩市に多摩藤倉学園設立 |
| 1958年 |
東京電力に日本初の154kV OFケーブル納入 |
| 1958年 |
沼津熔銅設立 |
| 1958年 |
東京都多摩市に多摩藤倉学園設立 |
| 1961年 |
兵藤嘉門、4代社長に就任 |
| 1964年 |
1964年(昭和39)に試運転が始まり |
| 1964年 |
佐倉工場に日本初の66kV POFケーブルを布設 : 通信ケーブルのSZ撚り方式製造装置開発 |
| 1964年 |
佐倉工場に日本初の66kV POFケーブルを布設 |
| 1964年 |
通信ケーブルのSZ撚り方式製造装置開発 |
| 1965年 |
1965年(昭和40)から本格稼動した佐倉工場 |
| 1965年 |
佐倉工場(1965) |
| 1965年 |
千葉県佐倉市に佐倉工場(現 佐倉事業所)完成 : 栗山久治、5代社長に就任 : ダイスタンプ式プリント配線板生産開始 |
| 1965年 |
佐倉工場開設 |
| 1965年 |
千葉県佐倉市に佐倉工場(現 佐倉事業所)完成 |
| 1965年 |
栗山久治、5代社長に就任 |
| 1965年 |
ダイスタンプ式プリント配線板生産開始 |
| 1968年 |
1968年、深川工場。 |
| 1968年 |
霞が関ビルに本社事務所設置 |
| 1968年04月 |
1968年(昭和43)4月に日本最初の超高層ビルである霞が関ビル(地上36階、地下3階)が完成した。藤倉電線も霞が関ビルへの本社事務所移転を決定し、同ビル11階で業務を開始した |
| 1968年04月 |
1968年(昭和43)4月に日本最初の超高層ビルである霞が関ビル(地上36階、地下3階)が完成した。藤倉電線も霞が関ビルへの本社事務所移転を決定し、同ビル11階で業務を開始した。 |
| 1968年04月 |
霞が関ビル(1968.4) |
| 1968年04月 |
本社事務所霞が関ビルへ移転 |
| 1969年 |
東京電力に275kV OFケーブル納入 |
| 1970年 |
1970年(昭和45)に第4の工場となる鈴鹿工場を建設した |
| 1970年 |
1970年(昭和45)に第4の工場となる鈴鹿工場を建設した。 |
| 1970年 |
鈴鹿工場(1970) |
| 1970年 |
三重県鈴鹿市に鈴鹿工場(現 鈴鹿事業所)完成 |
| 1970年 |
鈴鹿工場開設 |
| 1973年 |
木野二郎、6代社長に就任 : 社史「88年史」刊行 |
| 1973年 |
木野二郎、6代社長に就任 |
| 1973年 |
社史「88年史」刊行 |
| 1974年 |
木野新社長は1974年(昭和49)年頭に非常事態宣言を行い、経費節減などの対策を示した。藤倉電線も輸出拡大を図る一方、電線周辺での事業拡大を図るために「機器電材」「海外」の2事業部を新設した。 |
| 1974年 |
1974年年頭に木野新社長が非常事態宣言を行い、経費節減などの対策を示した。藤倉電線は輸出拡大を図る一方、電線周辺での事業拡大を図るために「機器電材」「海外」の2事業部を新設した。 |
| 1974年 |
CVD法による光ファイバ母材製造の検討開始 : 275kV CVケーブル開発 : 協栄線材(現 フジクラハイオプト)設立 |
| 1974年01月 |
木野新社長は1974年年頭に非常事態宣言を行い、経費節減などの対策を示した。藤倉電線も輸出拡大を図る一方、電線周辺での事業拡大を図るために「機器電材」「海外」の2事業部を新設した。 |
| 1974年 |
CVD法による光ファイバ母材製造の検討開始 |
| 1974年 |
275kV CVケーブル開発 |
| 1974年 |
協栄線材(現 フジクラハイオプト)設立 |
| 1975年 |
1975年(昭和50)より電電公社と共同開発を行い |
| 1975年 |
1975年より電電公社と共同開発を行った。 |
| 1975年 |
日本電信電話公社(現 NTT)、古河電気工業、住友電気工業、フジクラ間で光ファイバ共同研究協定締結 : 日本初、平型エレベータケーブル開発 |
| 1975年 |
日本電信電話公社(現 NTT)、古河電気工業、住友電気工業、フジクラ間で光ファイバ共同研究協定締結 |
| 1975年 |
日本初、平型エレベータケーブル開発 |
| 1976年 |
1976年(昭和51)にはMCVD法により極低損失ファイバを開発し |
| 1976年 |
1976年(昭和51)にはMCVD法により極低損失ファイバを開発し、長波長側に超低損失領域があることを発見(IEEEの論文賞受賞)した。 |
| 1976年 |
1976年にMCVD法により極低損失ファイバを開発し、長波長側に超低損失領域があることを発見し、IEEEの論文賞を受賞した。 |
| 1976年 |
日本電信電話公社(現 NTT)と世界初の長波長極低損失光ファイバ共同開発 : 東京電力袖ヶ浦火力に500kV OFケーブル納入 : 河村勝夫、7代社長に就任 |
| 1976年 |
1976年にMCVD法により極低損失ファイバを開発し、長波長側に超低損失領域があることを発見(IEEEの論文賞受賞)。 |
| 1976年 |
日本電信電話公社(現 NTT)と世界初の長波長極低損失光ファイバ共同開発 |
| 1976年 |
東京電力袖ヶ浦火力に500kV OFケーブル納入 |
| 1976年 |
河村勝夫、7代社長に就任 |
| 1977年 |
高抗張力線入りユニット型ファイバ開発 : 日本初、154kV CVケーブル実用化 : 本社事務所を五反田藤倉ビルに移転 |
| 1977年10月 |
1977年(昭和52)10月、本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビルに移転した |
| 1977年10月 |
1977年(昭和52)10月、本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビル(地上9階、地下1階)に移転した。 |
| 1977年10月 |
1977年10月、本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビルに移転した。 |
| 1977年10月 |
本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビルに移転した。 |
| 1979年 |
リボン電線、フラットケーブル製造開始 : 電子機器用フレキシブルプリント配線板(FPC)の生産開始 : 世界初低損失光シングルモードファイバで0.27dB/km達成 |
| 1980年 |
1980年(昭和55年)には極低OHファイバを国産自主技術であるVAD法により世界に先駆け開発 |
| 1980年 |
1980年(昭和55年)には極低OHファイバを国産自主技術であるVAD法により世界に先駆け開発をし、その広い低損失領域の実現により、現在の波長多重通信へとつながった。 |
| 1980年 |
1980年に極低OHファイバをVAD法により開発した。 |
| 1980年 |
メタシールSPケーブル開発 : シングルモード用光ファイバ融着接続機開発 |
| 1980年 |
1980年に極低OHファイバを国産自主技術であるVAD法により世界に先駆け開発した。 |
| 1981年 |
融雪用ヒートパイプ開発 : 日本初、光ファイバ複合架空地線開発 |
| 1982年 |
半導体圧力センサ開発 : 275kV CVケーブル納入 : 加賀谷誠一、8代社長に就任 : 加賀谷誠一、8代社長に就任 : 佐倉工場に光工場完成 : メンブレンスイッチ生産開始 |
| 1983年 |
日本列島縦貫用光ファイバ納入布設開始 : Fヒータを生産開始。 : 世界最長となるヒートパイプ融雪システムを定山渓温泉に納入 |
| 1984年 |
タイ王国最初の製造拠点となるフジクラタイランド社設立 |
| 1984年08月 |
1984年(昭和59)8月、タイ王国にフジクラタイランド社を設立した |
| 1984年08月 |
1984年(昭和59)8月、タイ王国にフジクラタイランド社を設立した。 |
| 1984年08月 |
1984年8月、タイ王国にフジクラタイランド社を設立した。 |
| 1984年08月 |
1984年8月にタイ王国にフジクラタイランド社を設立した。 |
| 1985年 |
創業100周年 : 世界初、コア直視型光ファイバ融着接続機開発 : 新社章制定 : 新社章制定 |
| 1987年 |
酸化物超電導材料の線材化に成功 : 佐倉工場に光エレクトロニクス研究所完成 : 社史「フジクラ100年の歩み」編纂 |
| 1988年 |
フジクラヨーロッパ社設立 : 世界初、CSトロリー線開発 : 世界初、多心光ファイバ融着接続機開発 |
| 1989年 |
光線路監視システム納入開始 |
| 1990年 |
1990年(平成2)本社ビルが完成。深川に本社を統合し、営業、技術、本社機能等が一体となって業務を遂行できる体制が整った |
| 1990年 |
1990年(平成2)本社ビルが完成。深川に本社を統合し、営業、技術、本社機能等が一体となって業務を遂行できる体制が整った。 |
| 1990年 |
1990年に本社ビルが完成し、深川に本社を統合した。 |
| 1990年 |
エルビウムドープ光ファイバ増幅器開発 : シスコム(現 フジクラソリューションズ)設立 : 深川新本社ビル完成 |
| 1991年 |
光システム開発センター完成 : フジクラプレシジョン設立 |
| 1992年 |
千葉県富津市に富津工場完成 : 千葉県富津市に富津工場完成 : 社名を「フジクラ」へ変更 : 社名を「フジクラ」へ変更 : 田中重信、9代社長に就任 : 田中重信、9代社長に就任 |
| 1992年10月 |
1992年(平成4)10月、深川工場に代わる電力ケーブル製造・開発の新たな拠点として富津工場を建設し、社名変更と同じ日に操業を開始した |
| 1992-10-01 |
1992年(平成4)10月1日、藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った |
| 1992年10月 |
1992年(平成4)10月、深川工場に代わる電力ケーブル製造・開発の新たな拠点として富津工場を建設し、社名変更と同じ日に操業を開始した。 |
| 1992-10-01 |
1992年(平成4)10月1日、藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。 |
| 1992-10-01 |
1992年10月1日、藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。 |
| 1992年10月 |
1992年10月、富津工場を建設し、操業を開始した。 |
| 1992年10月 |
1992年10月に富津工場を建設し、操業を開始した。 |
| 1992-10-01 |
1992年10月1日に藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。 |
| 1993年 |
深川本社に東京R&Dセンター完成 : 深川本社に東京R&Dセンター完成 : 500kV CVケーブル、北本光複合海底ケーブル納入 |
| 1995年 |
超低損失多心コネクタ開発 |
| 1996年 |
普及型小型光ファイバアンプモジュール開発 |
| 1998年 |
関電・電発に世界最大規模の直流500kV OF海底ケーブル納入 : 世界初、リサイクルできるエコ電線開発 |
| 1999年 |
辻川昭、10代社長に就任 : 辻川昭、10代社長に就任 : 新幹線用新信号ケーブル開発 : 500kV CVケーブル新京葉豊洲線納入 |
| 2000年 |
2000年(平成12)、新たな都市「深川ギャザリア」が誕生した |
| 2000年 |
2000年(平成12)、新たな都市「深川ギャザリア」が誕生した。 |
| 2000年 |
2000年に深川ギャザリアが誕生した。 |
| 2000年 |
深川工場跡地再開発「深川ギャザリア」誕生 : 深川工場跡地再開発「深川ギャザリア」誕生 |
| 2000年 |
2000年に深川工場跡地を再開発し、深川ギャザリアを誕生させた。 |
| 2001年 |
フジクラエレクトロニクス(上海)設立 : FTTH光製品商品化 : 自動車用着座センサ開発 |
| 2002年 |
高圧CV活線診断装置で澁澤賞受賞 : 地球深部探査船用ケーブル初納入 : ウエハレベルパッケージ生産開始 |
| 2003年 |
色素増感太陽電池開発 : 中国統括会社 藤倉貿易(上海)(現 藤倉(中国))設立 |
| 2004年 |
超高速エレベータケーブル納入 |
| 2005年 |
2005年(平成17)に創業120周年を迎えた |
| 2005年 |
2005年(平成17)に創業120周年を迎えた。 |
| 2005年 |
2005年に創業120周年を迎えた。 |
| 2005年 |
創業120周年 : 大橋一彦、11代社長に就任 : 大橋一彦、11代社長に就任 : 新経営理念「MVCV」導入 : 古河電気工業と電力合弁会社のビスキャス設立 : 三菱電線工業と合弁会社「フジクラ・ダイヤケーブル」設立 : アメリカフジクラ(AFL)設立 |
| 2005年 |
2005年に創業120周年を迎え、新しい経営理念「MVCV」を制定した。 |
| 2006年 |
スペインACEの株式60%を取得 : 創業120周年記念事業として経営理念をわかりやすく伝える絵本「飛ぶぞう。」を作成 : 創業120周年記念事業として経営理念をわかりやすく伝える絵本「飛ぶぞう。」を作成 |
| 2007年 |
本社ショールームリニューアル : 本社ショールームリニューアル : イットリウム系酸化物超電導線材、世界記録更新 : ファイバーテック株式会社買収 |
| 2008年 |
スペインACEを子会社化 |
| 2009年 |
長浜洋一、12代社長に就任 : 長浜洋一、12代社長に就任 |
| 2010年 |
タイ王国のグループ7社を統合し、フジクラエレクトロニクス(タイランド)(FETL)設立 : タイ王国のグループ7社を統合しFETL設立 : オプトエナジーを買収 : 深川工場跡地再開発「深川ギャザリア」完成 : ビオトープ「フジクラ 木場千年の森」オープン : ビオトープ「フジクラ 木場千年の森」オープン |
| 2011年 |
タイ王国の洪水で工場被災 |
| 2015年 |
光ファイバの量産性に優れたVAD法がIEEEマイルストーン認定 : 光ファイバの量産性に優れたVAD法がIEEEマイルストーン認定 |
| 2016年 |
伊藤雅彦、13代社長に就任 : 伊藤雅彦、13代社長に就任 : フジクラグループタイ王国洪水復興宣言 : フジクラ・ダイヤケーブルに産業用電線事業の製造事業および販売事業を統合 : 「フジクラグループ環境長期ビジョン2050を制定 : ビスキャスより配電線・架空送電線事業を譲渡 |
| 2016年 |
伊藤雅彦、13代社長に就任 : 伊藤雅彦、13代社長に就任 : フジクラグループタイ王国洪水復興宣言 : フジクラ・ダイヤケーブルに産業用電線事業の製造事事業および販売事業を統合 : 「フジクラグループ環境長期ビジョン2050を制定 : ビスキャスより配電線・架空送電線事業を譲渡 |
| 2017年 |
「フジクラ 木場千年の森」が東京都「江戸のみどり登録緑地(優良緑地)」に登録 : 監査等委員会設置会社に移行 |
| 2017年 |
「フジクラ 木場千年の森」が東京都「江戸のみどり登録緑地(優良緑地)」に登録 |
| 2017年 |
監査等委員会設置会社に移行 |
| 2018年 |
イノベーションハブ「BRIDGE」を開設 : 世界最大心数の光ファイバケーブル(6,912心 Wrapping Tube Cable : Ⓡ : (WTC : Ⓡ : ))の販売開始 |
| 2018年 |
イノベーションハブ「BRIDGE」を開設 |
| 2018年 |
世界最大心数の光ファイバケーブル(6,912心 Wrapping Tube Cable : Ⓡ : (WTC : Ⓡ : ))の販売開始 |
| 2020年 |
新型多心光ファイバ融着接続機90Rの販売開始 : スーパーコンピュータ「富岳」の冷却部品にコールドプレートが採用 |
| 2020年 |
新型多心光ファイバ融着接続機90Rの販売開始 |
| 2020年 |
スーパーコンピュータ「富岳」の冷却部品にコールドプレートが採用 |
| 2021年 |
タイ王国に電子部品製造会社「Fujikura Electronic Components (Thailand) Ltd.」を設立 |
| 2022年 |
岡田直樹、14代社長に就任 : フレキシブルプリント配線板の製造販売会社「株式会社フジクラプリントサーキット」を設立 : 送電線・メタルケーブル(ゴム絶縁電線含む)の製造販売会社「株式会社フジクラエナジーシステムズ」を設立 : 東京証券取引所プライム市場へ移行 : 香港に電子関連製品の販売会社「藤倉香港貿易有限公司」を設立 |
| 2022年 |
岡田直樹、14代社長に就任 |
| 2022年 |
フレキシブルプリント配線板の製造販売会社「株式会社フジクラプリントサーキット」を設立 |
| 2022年 |
送電線・メタルケーブル(ゴム絶縁電線含む)の製造販売会社「株式会社フジクラエナジーシステムズ」を設立 |
| 2022年 |
東京証券取引所プライム市場へ移行 |
| 2022年 |
香港に電子関連製品の販売会社「藤倉香港貿易有限公司」を設立 |
| 2023年 |
レアアース系高温超電導線材を小型核融合炉向けに増産 : レアアース系高温超電導線材 : 核融合炉の開発において世界をリードする米CFS社にレアアース系高温超電導線材納入開始 |
| 2023年 |
レアアース系高温超電導線材を小型核融合炉向けに増産 |
| 2023年 |
レアアース系高温超電導線材納入開始 |
| 2024年 |
創業以来初の全国テレビCM放送開始 |