| 1975年 |
40年以上前に、森田は今ではあたりまえになっているしゃぼん玉マシーンを自作した。 |
| 1976年 |
20kgもあるT6とかくそ重いスライダック6個を差し替えとか。だからあったらいいなってことで、切り替えボックスを自作。 |
| 1976年09月 |
四谷にて有限会社アートブレーンカンパニー設立。 |
| 1976-09-25 |
創立 : 1976年(昭和51年)9月25日 取締役会長 ⁄ 創業者 : 森田 昭彦 |
| 1980年 |
これも無かったからつくった。その発想は システムアート の商品開発に生きている。 |
| 1982年 |
川久保さんの1982年パリコレからの凱旋ショーは建設途中のフロムファースト、まだ地下がコンクリート打ちっぱなしのところ、そこにステージを作ってやったんですよ。演出が四方さんで、照明音響はABC、関根と久保江でした。 |
| 1984年 |
三越でのフロアショーがファッションデザイナーのオスカー・デ・ラ・レンタとの出会いだったと、森田会長は話します。三越の仕事で、オスカー・デ・ラ・レンタに指名される。三越でのフロアショーがファッションデザイナーのオスカー・デ・ラ・レンタとの出会いだったと、森田会長は話します。"三越でのオスカー・デ・ラ・レンタの仕事を本人が気に入ってくれて毎年やっていたのですが、ある時に本人の知らないところで別な会社に依頼されたことがありました。そうしたら、オスカーが頭から湯気が出るほど怒ってしまって森田を呼べ!"って。今回はしょうがないけれど、次回からは必ず森田を呼ぶようにと、指名が続くようになりました。その流れで、通訳の人を連れて来た本人から“ニューヨークのショーを手伝ってくれ”と言われて、まさか本当に行くことになるとは思いませんでした。彼は本気だったんですよね。まいりました(笑)。"ニューヨークでのショー。結果を出すことで、認められる。ニューヨークでの仕事について"ステージの図面をもらって“こういう機材をこれだけ用意してくれ”とお願いして向かったら、向こうの照明の担当者が“こんな機材、今時もう博物館ものだぜ”って言ったんです。服がきれいに見えるようなソフトな明かりを考えて、レンズも細かく指定して。でも、アメリカのスタッフがスゴいなと思ったのは、ショーが終わった時にお客さんの反応が相当よかったので、“オスカーが、わざわざ森田を呼んだ理由がわかるよ”って、ちゃんと認めてくれるんですよね。当時の現地のスタッフのレベルは失礼ながら低かったのですが、結果を出すことで次からは吉村も連れて行くことができ、さらに仕事が早くできるようになりました。余裕でしたね(笑)。"という森田会長です。オスカーが見せたかったのは、森田さんの『カクテルの妙』でした。~MATSUDA(マツダ弘光/ニコル)の演出でNYに来ていた長谷川増さんに手伝ってもらうことに~演出家の長谷川増さんは当時のことを"ニューヨークの会場は、ファッション工科大学のホールでした。現地のスタッフはA班B班のシフトでの対応でしたが、手が遅くユニオンが厳しいため、23時以降は森田さんと二人だけで仕込みをしていました。器材に触ったこともない私が森田さんに怒られながら脚立に上がって、朝まで照明を吊っていたのです。それは怖かったですよ(笑)。旧式の機材で、フィルターひとつ取ってもネジで止めるやつでしたからね。思い出すのは、徹夜してコーヒーを飲んで戻ってきたら、オスカー本人ととても上品なご婦人がいらっしゃって握手をしてくださったんですが、そのご婦人がキッシンジャー氏(ニクソンおよびフォード政権期の大統領補佐官、国務長官)の奥様だったんです。本番ではキッシンジャー氏にもご挨拶ができて、感激でした。」と聞かせてくれました。"ファッションショーの照明は、当時はニューヨークもパリもまだ劇場的な演出で、むしろ日本の方が進んでいたと思います。すでに森田さん、関根さん、吉村さんが実践されていた『洋服とモデルをいかにきれいに見せるか』その『質』を見せていたのです。森田さんは特に色の使い方と組み合わせが素晴らしく、オスカーもそれをニューヨークで見せたかったのだと思いますが、まさに『カクテルの妙』でした。特に白系の組み合わせや、いかに黒をきれいに見せるかは絶妙でした!モデルの肌の『質』をきれいに見せるために、デイライトフィルターにうまくピンクを使われていたんですよね。"ファッションもABC。それは、1980年代のニューヨークでのショーにおいても、認められていたのです。 |
| 1984年 |
定価1千万円のものを、6百万円でつくった。一本のフェーダーで勝負できる機材を。 |
| 1985年10月 |
本社を中野新橋へ移転。 |
| 1986年 |
コンピュータでプログラミングされたリックスも、森田の発想からだった。 |
| 1986年12月 |
音響、照明器材を扱う会社として、有限会社システムアートを設立。 |
| 1987年 |
電球が12個に対して3回路だったものを、配線を変えることで12回路に改造した。 |
| 1989年 |
買った方が早い時は、いち早く買った(笑)やりたいことができることを優先して。 |
| 1992年07月 |
中野区弥生町に自社ビルを建設。事務所兼倉庫とする。 |
| 1993年 |
1間玉(直径180cm)ミラーボール もつくった。当時は、日本一の大きさだった。 |
| 1994年01月 |
株式会社アートブレーンカンパニーへ組織変更。 |
| 1997年 |
24年前の1997年 JUNYA WATANABE の現場でした。パーライトの照明フォーカスに3時間半かかったことに目まいが。 |
| 2001年 |
初パリコレは入社1年が経った2001年頃、UNDERCOVER。衝撃的で驚く事ばかり。 |
| 2002年 |
LEDを使った カクテルパレット を見た森田の直感で、独占契約することに。現在更に照度を増してアップデートされた カラーパレット も扱っている。 |
| 2006年 |
- 2006年ABCに入る前に、UNDERCOVERをはじめ幾つか見せて頂きました。全てが新鮮で、会場の素晴らしさ、日本とは全く違う雰囲気。圧倒されました。UNDERCOVERの時の客入れに使用していた色、最高でした! |
| 2008-02-25 |
2008/02/25 LA CIGALE が初めてのパリでのショーでした。 |
| 2009年 |
水で字を書くアクアサーモは綺麗だったけど、そこら中を水浸しにして失敗(苦笑) 閉じる |
| 2013年 |
- 2013年1回目の時は、なぜか流れで本番の客電をやることになり、ショーに関わることになりました。これも、パリコレのオペをした実績になるのか?? |
| 2014年 |
2014年、自分が参加したのは JULIUS。ブランドの照明さんと関根さんと自分でGrandMAとMidiキーボードを用いたはしゃぎながらの本番、音源のノリやウォーキング現場の雰囲気を重視したオペは楽しかったですね。 |
| 2016年 |
2016年春夏メンズの JULIUS と JUNYA WATANABE COMME des GARCONS MAN の2本立てです。 |
| 2019年01月 |
2019年1月、UNDERCOVER の 2019-20AW でアシスタント兼ムービングオペレーターとして連れて行って頂きました。 |