DAITO SEISAKUSHO Co., Ltd.
基本情報
- 所在地
- 〒115-0055 東京都北区赤羽西1-7-1パルロード3 8階
- 社長
- 木原 海鵬
- 資本金
- 60,000,000 円
- 従業員数(単独)
- 従業員数(連結)
- 30 人
- 開始日
- 1956-05-01
- 終了日
サイト
事業内容
関連会社
関連図
沿革
木原工業(後の大都製作所)は創業者 木原茂の手によって鉛筆工場からスタートしました。
第2次世界大戦前の1940年、ちょうど日本が世界大恐慌に突入し、人々の生活が厳しくなり、戦争の足音が聞こえ始める昭和15年、時代は激動の最中で少し暗い不安定な時代に大都製作所は産声をあげました。製造業の右も左も分からない中で、創業者である木原茂は裸一貫で大都工業(後の大都製作所)を興しました。その気概はまさに“チャレンジスピリッツ”でした。
創立当初は三河島のプレス工場で絵の具用パレットや生活用品のプレス製品を手掛けていましたが、後に自転車のバンドブレーキ、ベルなどを製造するようになりました。やがて、大都のバンドブレーキと好評を博して自転車業界で親しまれるようになります。右の写真はバンドブレーキの初出荷に胸躍らせる社長と社員一同の記念写真です。大都のバンドブレーキは広く一般に知られるようになりました。
大都工業は、三河島の工場から赤羽に移転と同時に大都製作所に社名を変更しました。昭和32年の経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言したその翌年、日本経済はなべ底不況になりました。昭和35年に政府は所得倍増計画を決定し、その後の株式大暴落(昭和36年)、金融引き締めと解除など、めまぐるしく日本経済が揺れ動く中、赤羽に移転した大都製作所は電気釜、電気ストーブなど、家電製品のプレス、塗装、組み立てを行っていました。
遊技機(パチンコ)メーカーからの開発依頼を受けて、大都製作所は高性能の電動還元機を目指して研究開発に取組みました。大都が目指す高性能電動還元機への道は、まさに試行錯誤の連続でした。当時、故障のない完成度の高い還元機となるとどこも販売していませんでした。妥協することなく納得のいく電動還元機を完成させるためには下記に記載されるいくつかの超えなければならないハードルがありました。 ・スムーズなパチンコ玉の移送 ・モーターの耐久性 ・狭いホールでも場所を取らないコンパクトな仕様 開発の過程の中で、大都は信頼性の高さを追及しました。
大都製作所は、還元機の販売、普及に伴い各地に営業所を設置しました。モーターの焦げ付きの多いベルト方式に対して、大都は信頼性の高いステンレスのチェーン方式を採用することによって高性能のものを作り上げました。還元機・・・当時人力でパチンコの玉を上皿タンクに上げていたのを、モーターの動力で自動的に玉を一個一個上げる機械。信頼性の高さに加えてアフターサービスにも力を入れました。
某還元機メーカーが倒産し、倉庫にあった不良在庫を格安で販売処分した為、大都の還元機が売れなくなる事態になってしまいましたが、一方、還元機での開発技術を評価され、開発依頼を受けて自動販売機事業をスタートしました。
百円玉の普及が進むなか、自動販売機の製造で得たノウハウを遊技業関連に応用させました。同時に業界ではいち早くコンピュータに着目。画期的な高性能コンピュータを開発し、直営ホールに実際に設置稼動させました。翌年は自動玉貸機の発売を開始しました。さらに百発皿付きパチンコ機が出ると、大都の還元機が大好評を得て広く普及しました。
フィーバー機の爆発的なヒット以後、高額紙幣の両替、玉貸機の需要が増えました。大都は一番最初に万札の両替機を手掛けました。難しい紙幣の識別、搬送については、昭和47年以来、両替機を製造してきた大都の技術が実を結びました。 しかし、ここまでの道程は決して平穏ではありませんでした。何度もテストを行い、厳しい検査を重ね出荷しても、テストでは起こらないトラブルが実際には発生しました。その度に原因を追求し改良を重ねてきました。その地道な努力から得た大都の教訓は、『機械の性能に余裕を持たせる』ということです。いまでも、この教訓は大都のものづくりの思想となっています。
ハンバーガー玉貸機「BR100-T」発表
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