| 1924-04-01 |
4月1日、名古屋市郊外八事(やごと)の山本球場に「過去一年間の試合で最強チームと認められた」8校が出場、川崎卓吉名古屋市長の始球式で開幕。新調の紫紺の大優勝旗は高松商・野村栄一主将へ―。 |
| 1925年 |
選考委員会制度が確立。舞台は前年夏完成の阪神甲子園球場に。個人賞を制定し山下実(第一神港商)が2ホーマーで、本塁打賞を受賞。出場12校。 |
| 1926年 |
出場校は第l回大会に比べて倍増のl6校。同一地域の初戦同士打ちを避けるなど抽選に新機軸を打ち出した。 |
| 1927年 |
大正天皇崩御の国喪に服し、出場校数を縮小、初めて補欠校を選び期間も3日間で行われた。破天荒の新企画といわれた優勝チームの米国遠征の初切符は、和歌山中が手中に収めた。出場8校。 |
| 1928年 |
熱戦の模様が初めてJOBK(NHK大阪放送局)の電波に乗った。優勝候補の筆頭和歌山中を降して栄冠は伏兵の関西学院中に輝いた。優勝校に優勝盾が贈られる。 |
| 1929年 |
補欠校制度が発足。校名プラカードの先導、勝利校の栄誉をたたえる校歌吹奏と校旗掲揚など新しい趣向も続々。大会終了後、アルプススタンドが完成。 |
| 1930年 |
第一神港商が2連覇、その立役者・岸本正治投手が54奪三振の大会記録。1大会で3満塁本塁打の新記録。台湾から台北一中が初出場。準優勝盾が制定され、準優勝校もダイヤモンド中央に整列。 |
| 1931年 |
{蒼空高き甲子園…〟の初代大会歌誕生。背番号がこの大会だけ試験的に採用された。灰山元治投手(広島商)が坂出商相手に大会初の無安打無得点試合。出場l9校。 |
| 1931年 |
1931年に関係者による会議が開かれ、中等学校野球連盟設立の方針が示された。 |
| 1932年 |
野球統制訓令の施行により、優勝校の米国見学中止。外野フェンスに歴代優勝校の校板を掲示。楠本保投手(明石中)が大会初の全員奪三振を2度にわたって記録。出場校20校。 |
| 1932年03月 |
1932年3月に文部省が『野球統制令』を発した。 |
| 1933年 |
前年優勝校の無条件出場をやめ、戦力をチェックしてから判断することになった。現実には戦前ずっと、前年優勝校の出場が続いた。記念大会のため、それまで最多の32校出場。優勝、準優勝メダルの贈呈とともに準優勝チームヘ深紅の準優勝旗を贈る。岐阜商が初優勝し“東海王国”の礎を築く。 |
| 1934年 |
開閉会式を飾る゛陽は舞いおどる甲子園……,の2代目大会歌誕生。享栄商の近藤金光投手が5試合(再試合を含む)60イニングをl人で投げ抜く新記録。出場校20校。 |
| 1935年 |
浪華商が出場辞退第1号、補欠一位の中京商が代わって出場。東海三強の中から岐阜商が抜け出して2度目の栄冠獲得。 |
| 1936年 |
岐阜商、東邦商、岐阜商に次いて愛知商が優勝し、東海勢大暴れの4連覇。7月、甲子園外野スタンドの大改造。 |
| 1937年 |
スクールカラーに校章をあしらった選抜旗を出場全チームに授与。浪華商が大阪勢で優勝一番乗り。滝川中が対浦和中戦で―試合最多の27得点の新記録。 |
| 1938年 |
野口二郎投手が史上初の4試合連続完封の快挙を成し遂げ、中京商初優勝の原動力となる。 |
| 1939年 |
チーム大会通算最多の73安打に、59最多得点をあげた猛打・東邦商が2度目の優勝をとげる。JOBKが解説入りで実況中継。 |
| 1940年 |
大島信雄投手が史上2人目の4試合連続完封で、栄冠は三たび岐阜商に輝く。 |
| 1941年 |
風雲急を告げるなか、東邦商が岐阜商に続く3度目の優勝で戦前を終え、空白期に入った。甲子園名物の鉄さんは18年に供出。出場16校。 |
| 1946年01月 |
1946年1月に大阪で連盟づくりの中心となる人々が討議を行った。 |
| 1946年02月 |
1946年2月に全国中等学校野球連盟が誕生した。 |
| 1946年12月 |
1946年12月に『学生野球基準要綱』が作られた。 |
| 1947年 |
5年の中断を経て「甲子園原頭の春回る」(俳人・田村木国)。徳島商が昭和10年の初出場以来〝五度目の正直〟で初優勝。出場26校。 |
| 1947年05月 |
1947年5月に戦前の統制令が廃止された。 |
| 1948年 |
学制改革により「第一回選抜高校野球大会」と名称を変更。選考委員会に地区別小委員会ができる。決勝は京都勢の争いとなり、京都一商が京都二商を降した。出場16校。 |
| 1949年 |
地元の北野(大阪)が強豪を押しのけて初優勝。ホームベースに闘志、友情の頭文字「F」をデザイン化した全国高校野球連盟(現日本高等学校野球連盟)旗ができる。 |
| 1949年 |
1949年春に連盟旗が甲子園に翻り、連盟主導の大会を印象づけた。 |
| 1949年 |
1949年に旧日本学生野球憲章が制定された。 |
| 1949-04-01 |
1949年4月1日、戦後3回目の選抜高等学校野球大会が阪神甲子園球場で開幕した。 |
| 1950年 |
韮山が初出場で優勝。これまで全国から一括選出していた補欠校制度を地区別選出に改正。電報、郵便サービスカーが甲子園初出場。 |
| 1951年 |
補欠校を選外優秀校と改める。全力疾走の鳴門が、3試合連続の逆転劇で初優勝。 |
| 1952年 |
ジュラルミン製の銀傘が復活。NHKだけだったラジオ実況放送に新日本放送(現毎日放送)が加わる。静岡商が田所善次郎投手の史上3人目の4試合連続完封で優勝。出場18校。 |
| 1953年 |
秋季練習の一週間を入場行進にあてた新進・洲本が堂々の〝優勝行進〟。ポジションどおりの背番号が復活した。出場19校。 |
| 1954年 |
160センチの小さな大投手・光沢毅の快投で飯田長姫が初出場で優勝。NHKのTV放送始まる。出場19校。 |
| 1955年 |
一関一(岩手)が東北勢として初出場。大会回数を戦前からの通算に戻す。戦後初の2本塁打を放った坂崎を中心に浪華商打線が火を噴き、18年ぶり2回目の優勝。出場20校。 |
| 1956年 |
中京商が再び栄冠獲得、富田虎人が8連続安打の大会新記録で花を添える。大会後、甲子園ナイター設備完成。 |
| 1957年 |
選考委員会の小委員会がブロック化。王投手を擁する早稲田実が優勝。初めて大旗の箱根越えが実現。「高校野球はまずチームプレー」の見地から個人賞が廃止された。 |
| 1958年 |
大旗は、済済黌の優勝で初めて九州に。興国商―坂出商は大会史上初のナイター。出場23校。 |
| 1959年 |
皇太子殿下のご成婚当日、東海のライバル同士が激突し、中京商が岐阜商を降して三たび優勝。選手の健康管理の上から延長戦が18回で打ち切られることになった。 |
| 1961年 |
初出場の法政二が前年夏に続いて春も制覇。怪童といわれた浪商・屋崎行雄も準々決勝で優勝投手、柴田勲に投げ負ける。 |
| 1962年 |
補欠校と選外優秀校の二段構えに。作新学院が高校野球史上初の春夏連覇を達成した。 |
| 1963年 |
新調の゛二代目優勝旗、は剛腕・池永の下関商へ。傷みの激しい旧優勝旗は日本高等学校野球連盟に永久保存。PL学園の戸田善紀投手が、首里相手に全員の21奪三振、33年ぶりに大会記録を塗り変える。出場28校。 |
| 1964年 |
徳島海南―尾道商による史上初の初出場同士の優勝戦は尾崎将司の海南に軍配。束京オリンピックの年に当たり,五輪旗の入場が開会式を盛りあげる。出場23校。 |
| 1965年 |
平松政次投手が史上4人目の4試合連続完封で岡山東商初優勝。合わせて39イ二ング連続無失点記録も樹立。打では市和歌山商の藤田平が個人1試合2本塁打。出場24校。 |
| 1966年 |
中京商が4度の最多優勝、作新学院に続いて夏も制覇。中京商―宇部商が延長15回、4時間35分の最長時間試合を記録。 |
| 1967年 |
津久見が九州へ2度目の優勝をもたらす。 |
| 1968年 |
記念大会事業として、出場校が都道府県の木を持ち寄り、完工間近の中沢記念野球会館に記念植樹。大宮工が初出場で優勝。出場30校。 |
| 1969年 |
三重が12一0で堀越を降して初優勝。岐阜商の鍛治舎巧選手が大会甲子園通算100号ホーマー、浪商が史上2度目のチーム1試合3本塁打を記録。出場26校。 |
| 1970年 |
史上5回目の近畿勢決戦は、箕島が延長12回で北陽を振り切ってサヨナラ優勝。 |
| 1971年 |
選考基準を明文化。選外優秀校を廃して補欠校に一本化。史上初の東京・大阪決戦は、日大三が2―0で大鉄を降して優勝。普天間が弘前に勝って、沖縄勢にとって初のセンバツ1勝。 |
| 1972年 |
事故防止策として耳つきヘルメット着用を義務づける。ベスト4を東日本勢で独占、日大三―日大桜丘による゛兄弟決戦、は、ジャンボ・仲根正広の力投で桜丘が優勝。出場27校。 |
| 1973年 |
日大山形(山形)が出場してセンバツ空白県消える。作新学院の江川卓投手が60奪三振、43年ぶりに大会記録更新。優勝した横浜のスラッガー・長崎誠が史上初のサヨナラ満塁ホーマーを記録。出場30校。 |
| 1974年 |
地元の報徳学園が〝イレブン旋風〟の池田を抑えて優勝。広島商が1試合14盗塁のレコードを立てながら大分商に敗退。 |
| 1975年 |
金属バットが初登場。春夏を通して高知が、高知県勢一番ヤリの全国制覇達成。出場29校。 |
| 1976年 |
第10回、第40回同様、史上最多の13校が初出場、新風吹き荒れるそのなかから崇徳が抜け出して優勝。第8回の広島商以来、広島県勢としては45年ぶり2度目の快挙。出場30校。 |
| 1976年 |
1976年に『日本高校野球連盟 三十年史』が発行された。 |
| 1977年 |
〝二十四の瞳〟中村が大暴れ。決勝で箕島に惜敗。準々決勝の中村-天理戦でセンバツ通算1000試合を数える。 |
| 1978年 |
前橋の松本稔投手が春夏の甲子園史上初の完全試合達成、さらに大会甲子園通算l50ホーマーも出て記念大会を飾る。浜松商が初優勝。 |
| 1979年 |
箕島の尾藤公監督が監督として大会初の3回優勝。夏も制して史上3校目の春夏連覇。阿部慶二選手(PL学園)が大会通算個人最多本塁打3本、北野敏史選手(箕島)が大会初のサイクル安打をマークした。 |
| 1980年 |
高知商・中西、帝京・伊東の投げ合いとなった優勝戦は、高知商が延長十回サヨナラで初優勝。 |
| 1981年 |
PL学園が9回2点差をはねのけて逆転サヨナラで初優勝。PL学園主将、吉村禎一選手は東海大工戦で大会甲子園通算200号本塁打。 |
| 1982年 |
PL学園が戦後初の2連覇達成。中京が二回戦で大成を降して前人未到の甲子園100勝をマークした。 |
| 1983年 |
第l0回大会以来50年ぶりに出場校が32校に増え、以後この32校が定着する。前年夏の覇者、池田が大会を制して第33回大会(昭和36年)の法政二以来史上4校目の夏春連覇。藤王康晴選手(享栄)が連続出塁l1の大会新記録。大会委員長(日本高等学校野球連盟会長)の講評始まる。 |
| 1984年 |
出場32校中史上最多のl6校が初陣というフレッシュ大会は岩倉がPL学園の夏春連覇を阻んで初出場初優勝。PL学園の1試合6本塁打をはじめ大会新の30本塁打が飛びかい、ワンバウンドのフェンス越え二塁打を塁審が本塁打と誤認する一幕も。あおりを受けて、外野フェンスの優勝校名板が撤去されることになった。 |
| 1985年 |
伊野商が前回の岩倉に続いて初出場初優勝。大会直前、金属バットの安全性が問題化、バットの回収騒ぎなどもあり、本塁打が前年の30本から18本に減少。 |
| 1986年 |
池田が初陣の宇都宮南に打ち勝ち2回目の優勝。3年連続の初出場優勝はならなかった。初出場の新湊が富山県勢初のベスト4進出。 |
| 1987年 |
PL学園が一回戦から決勝まで5試合すべてを継投で乗り切り5年ぶりの優勝。夏の甲子園も制して史上4校目の春夏連覇。八戸工大一が青森県勢としてはl8年ぶりの甲子園勝利を飾った。 |
| 1988年 |
〝還暦〟の記念大会とあって史上最多の34校が出場。阪神甲子園球場のラッキーゾーンが2.5メートル後退してグラウンドが広くなった。浩宮さまをお迎えしての開会式。宇和島東が初出場初優勝、東邦は47年ぶりの大旗を逃した。 |
| 1989年 |
東邦が昭和16年以来4度目の優勝。佐賀竜谷の田代広之選手が甲子園大会春夏通算1000号ホ-マ-。 |
| 2018年 |
近畿勢対決となった決勝で大阪桐蔭が智弁和歌山を振り切り、2年連続3回目の優勝。選抜連覇は第一神港商(兵庫、6、7回大会)、PL学園(大阪、53、54回大会)以来3校目の快挙だった。サヨナラ本塁打3本は大会記録。大会前には小学生の子供たちにボール遊びを楽しんでもらう「センバツ・キッズフェスタ」を初開催した。 |
| 2019年 |
投打にバランスのよい東邦(愛知)が習志野(千葉)を破り、最多の5回目の優勝を果たした。平成最初の第61回大会(1989年)以来の優勝で、平成最後の大会も頂点に立って締めくくった。東邦はセンバツ通算56勝目となり、大会勝利数も最多になった。内野席の入場料金を改定した。 |
| 2020年 |
新型コロナウイルス感染拡大を受け、3月11日に大会中止を決定した。3月4日の運営委員会では、無観客での開催を前提に準備を進め、11日に再協議するとしていたが、収束が見通せず、選手や関係者の安全を完全に守ることは難しいと判断した。開催決定後の中止は史上初。出場が決まっていた32校は夏に1試合のみの「2020年甲子園高校野球交流試合」を戦った。交流試合では、この年から導入された500球の投球数制限、申告故意死球が適用された。 |
| 2021年 |
新型コロナウイルス感染対策として、観客を1試合あたり1万人に制限して2年ぶりに開催した。全5試合に登板して無失点の左腕、石田を擁した東海大相模(神奈川)が3回目の優勝を果たした。2018年から導入されたタイブレークが選抜で初めて実施されるなど延長試合は大会最多に並ぶ7試合を数えた。感染対策として、チーム関係者は大会前と1回戦勝利翌日にPCR検査を受けた上で試合を行った。試合前は出場選手以外、マスクを着用。アルプス席では、ブラスバンドの演奏を禁止し、CD音源と大声を出さない声援や拍手で応援した。入場券は全席前売り指定席で販売した。開会式は、第1日に試合がある6校のみ参加し、他の26校は事前に撮影した行進の映像がスコアボードのビジョンに映し出された。 |
| 2022年 |
大会通算最多新の11本塁打と猛打をふるった大阪桐蔭が4回目の優勝を果たした。前年に続きコロナウイルス禍の下での開催で、PCR検査の結果を受け、京都国際は大会直前に辞退。代わって補欠校から出場した近江(滋賀)が、エース山田の好投などで勝ち進んで準優勝した。広島商も2回戦を辞退した。開会式は簡素化し、大会第1に登場する6校のみで実施。優勝旗の返還式は前年度優勝の東海大相模(神奈川)の校内で開幕前に行った。降雨などで試合が途中で打ち切りとなった場合、翌日以降に引き続いて試合を行う継続試合が導入された。また、顎(あご)ガード付きヘルメット(フェースガード)の使用も認められた。 |
| 2023年 |
投打がかみ合った山梨学院が同県勢として春夏通じて初優勝した。新型コロナウイルス感染の影響もおさまり、選考委員会、抽選会はすべて対面で行われ、開会式の入場行進では、選手全員がグラウンドを1周。声出し応援も2019年夏以来に解禁され、マスク着用も個人の判断に委ねられた。試合前練習で初めて城東(徳島)の女子部員がノックを行った。外野席にも子ども料金を設定した。タイブレーク制度は延長十三回から十回からの開始に早まり、3試合がタイブレークとなった。外野指定席に新たに子ども料金が設けられた。 |
| 2024年 |
創設100年の節目の大会を、健大高崎(群馬)が同県勢初のセンバツ制覇で飾った。選手の安全対策として低反発バットが本格導入され、大会本塁打はランニング本塁打1本を含む3本にとどまった。大会期間中に阪神甲子園駅前の広場で、元日に起きた能登半島地震の募金活動を実施した。 |
| 2025年 |
横浜(神奈川)が前年秋から明治神宮大会を含めて公式戦20連勝で、19年ぶり4回目の頂点に立った。雨天等による順延がなく、センバツでは20年から2日間設けられている休養日が初めて予定通り確保された。 |