フジクラ代表取締役社長がAIリーダーズ会議に登壇 ↗
株式会社フジクラの代表取締役社長CEOの岡田直樹が、日経BP主催の「AIリーダーズ会議 2026 Autumn」に登壇します。会議は2026年9月1日と2日に都内でハイブリッド形式で開催され、AI産業革命における経営戦略や産業変革について議論されます。岡田は最終セッションで熊野信一郎編集長と対談し、データセンタ投資やフジクラの製品の強みについて意見を交わします。
栃木県佐野市下野村で熊吉の長男として生まれる。
Operated a rice milling business using a waterwheel.
栃木県植野村(現 佐野市)船津川で誕生。創業者藤倉善八の末弟。
Moved to Tokyo and settled in Kanda Myojin.
善八は水車権の契約が切れたのを機に新生活を求めて東京への進出をする。
Started root tying business at Kanda Awajicho 1-chome.
善八の妻いねが始めた内職から、1881年(明治14)「根掛け」の製造を始めた。
First demonstration of arc lamp in Ginza.
1882年(明治15)銀座で第1回デモンストレーションが行われた。
Saw arc lamp at Nihonbashi, sparked interest in electricity.
1883年(明治16)11月3日、日本橋通り電信局のバルコニーのアーク燈を末弟留吉と見に行き、電気に興味を抱く。
Requested 9th generation Ichikawa Danjuro to produce root tying product, leading to nationwide orders.
1884年(明治17)5月 : 新富座で9代目市川団十郎に口上を頼む : 注文が殺到し、根掛け事業が成功する。
藤倉善八が絹・綿巻線製造を開始し、藤倉電線の創業を果たした。
藤倉善八が絹・綿巻線の製造を開始した。
藤倉善八、絹・綿巻線製造開始
明治18年 : 藤倉善八、絹・綿巻線製造開始 : 藤倉善八
Started manufacturing silk and cotton winding wire.
Founded Fujikura with the start of silk and cotton winding wire manufacturing.
1885年(明治18)2月 : 絹・綿巻線製造開始 : 弟春吉と鉄製編組機械を工夫製造し、生産効率改善。
藤倉留吉が渡米し、技術を習得した。
藤倉留吉が渡米した。
藤倉留吉渡米
明治19年 : 藤倉留吉、渡米
アメリカ合衆国から大型の織機を5台輸入した。
藤倉善八が米国から大型編組機5台を輸入した。
1887年(明治20)米国より大型編組機5台を輸入。
藤倉善八米国から大型編組機5台輸入
明治20年 : 藤倉善八、米国から大型編組機5台輸入
新宿御料地内の製糸場を借り受け工場を移転し、東京線・パラフィン線・コード類の製造を開始した。
新宿御料地内の製糸場を借り受け工場を移転し、東京線、パラフィン線、コード類の製造を開始し、ゴム線の研究に着手した。
工場移転・製糸場借り受け・製造開始・ゴム線研究着手
明治21年 : 新宿御料地内の製糸場を借り受け工場移転 : 東京線、パラフィン線、コード類の製造開始 : ゴム線の研究に着手
Rented the former Shinjuku factory site for production.
宮内省御料地内(新宿御苑)の製糸場を借り受け新宿工場を開設。玉川上水から引く小川に水車があり、その動力を使う。工場は水車の両側に2棟の木造、瓦葺き、レンガ敷きの建物(15m×32m)であった。設備は組紐機械8台、電線編組機20台、従業員は5~6名。東京線、パラフィン線ランプコードの製造を始める。ゴム線の研究を開始する。
1888年(明治21)4月 : 新宿御料地内の製糸場跡を借りうける(新宿工場)。
明治22年
工場を千駄ヶ谷900番地に移転した。
藤倉留吉帰国・工場千駄ヶ谷900番地移転
(明治23) : 藤倉留吉、米国より帰国 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転
Moved factory to Sendagaya 900.
千駄ヶ谷900番地の紀州徳川家の土地を買収して新工場を建てた。ここにも玉川上水を利用する水車があって、より大きく、より強力であった。水車動力でゴムローラを動かし、ゴム線の製造が始まった。その頃、ゴム線では国産品はなく、専ら高い外国製が使われていた。
1890年(明治23)9月 : 工場を千駄ヶ谷900番地に移転(千駄ヶ谷工場①)。
日本で初めてゴム被覆線の製造を開始した。
日本初ゴム被覆線製造開始
(明治26) : 日本で初めてゴム被覆線の製造開始
工場を千駄ヶ谷922番地に移転し、岡田顕三が電線製造技術修得のため渡米した。
工場を千駄ヶ谷922番地に移転し、岡田顕三が電線製造技術を修得するため渡米した。
工場千駄ヶ谷922番地移転・岡田顕三渡米
(明治29) : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転 : 岡田顕三、電線製造技術修得のため渡米
Moved factory to Sendagaya 922.
1896年(明治29)6月 : 工場を千駄ヶ谷922番地に移転(千駄ヶ谷工場②)。
Drafted plan for Fujikura partnership company.
1900年(明治33)藤倉合資会社設立案を作成。
帰国した岡田顕三は、技術面でもっとも重要な役目を果たすのである。
1900年8月、帰国した岡田顕三は、技術面でもっとも重要な役目を果たすのである。
創業者・藤倉善八が死去し、松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社を設立した。
藤倉善八死去・松本留吉代表社員・藤倉電線護謨合名会社設立
(明治34) : 創業者・藤倉善八(59歳)死去 : 松本留吉が代表社員となり藤倉電線護謨合名会社設立 : 松本留吉
Requested brother to focus on electric wire business.
留吉は1901年5月に洋家具店を処分し、善八の要請を受け入れ上京した。
1901年(明治34)5月 : 洋家具店(横浜)を営む末弟留吉に電線事業に専念の要請。
1901年5月洋家具店を処分し、善八の要請を受け入れ、上京する。
Founder Fujikura Zen'ya died at age 59; brother Matsumoto Ryuji became successor.
1901年10月8日 : 死去(59歳)、遺言により末弟松本留吉が後継者となる。
藤倉電線護謨合名会社を設立し、代表社員となった。
1901年10月25日、藤倉電線護謨合名会社を設立し、その代表社員となった。
1903年、旋風で工場全壊。
日本最初の逓信省ゴム被覆線指定工場となる : 旋風により千駄ヶ谷工場全壊するも3か月後に復旧 : 旋風により千駄ヶ谷工場全壊するも3か月後に復旧
松本留吉が代表社員となり藤倉電線株式会社設立 : 藤倉合名会社防水布製造所(現 藤倉コンポジット)設立
電線事業拡大の必要から電線事業を分離、藤倉電線株式会社が誕生する。
1910年3月18日、電線事業拡大の必要から電線事業を分離、藤倉電線株式会社が誕生する。
熔銅・展延・製線作業開始
多層ゴム被覆線の特許取得 : のちの電線要覧の元祖となる「実用電線要覧」発行
知的障がい者施設「藤倉学園」設立(大島) : 知的障がい者施設「藤倉学園」設立(大島)
水運の利便性とより広い工場を求め、深川平久町の2万2000坪を買収し、工場建設着手
深川の熔銅工場完成
深川本社・工場完成 : 深川本社・工場完成 : 野球部発足 : 大震災で深川本社・工場全焼
関東大震災が深川工場を襲い、煙突が折れる程度で被害は軽微であったが、その夜、洲崎弁天町で出火した火災で延焼し、深川工場は全焼した。
1923年9月1日、関東大震災が完成したばかりの深川工場を襲った。煙突が折れる程度で被害は軽微であったが、その夜、洲崎弁天町で出火した火災で延焼し、深川工場は全焼した。
深川工場復旧
深川工場再建(1924.3)
1924年3月、深川工場再建。
1923年に松本新太社長によって創られた野球部。
1925年、工場横にグランドが作られ、野球部が創部された。
逓信省に国産絶縁紙による1200対ケーブル納入 : 鉄道省の指定工場となる
本社新館完成
ユニット型市内ケーブル製造開始 : OFケーブル製造開始 : 研究棟完成 : 研究棟完成
日本初となる飛行機用電線「藤光線」製造開始 : 日本初となる飛行機用電線「藤光線」製造開始
社標を正式登録 : 社標を正式登録 : 鈴木工作所(現 スズキ技研)設立
藤倉型高周波同軸ケーブルの特許取得 : のちのフジクラ技報の前身となる「藤倉電線彙報」創刊
初代社長・松本留吉(71歳)死去 : 松本新太、2代社長に就任 : 松本新太、2代社長に就任 : 第12回都市対抗野球優勝 : 藤倉化学工業(現 藤倉化成)設立
松本留吉社長の死去により松本新太が2代社長に就任。
1938年3月、松本新太が2代社長に就任した。
松本留吉社長が3月24日に死去。
1938年3月24日、松本留吉社長が死去した。
第13回都市対抗野球優勝 : 藤倉航空工業(現 藤倉航装)設立
アルミ電線製造開始
岡田顕三死去 : 藤倉型100kW同軸ケーブル製造開始
1944年に戦争疎開工場として創設した富士工場は東京大空襲で焼失した深川工場から、焼け残りの機械を移設し、ゴム線工場として稼動していた。
富士工場開設 : 富士工場開設 : 米沢末広電纜工業(現 米沢電線)設立
東京大空襲により深川工場全壊 : 深川工場再建開始
東京大空襲で深川工場は全壊。多くの犠牲者を出した。
1945年3月10日、東京大空襲で深川工場は全壊した。
1945年9月に深川工場を再建し生産を開始。
1945年9月、深川工場を再建し生産を開始した。
石橋五郎、3代社長に就任
NHKに日本最初の24心TVカメラケーブル納入 : 日本発送電にACSR初納入 : ビニル電線製造開始 : キティ台風で深川工場が水害を受ける
1953年7月に沼津工場として操業を開始。
1953年7月、沼津工場として操業を開始した。
1954年、沼津工場が設立された。
静岡県沼津市に沼津工場(現 沼津事業所)完成 : 静岡県沼津市に沼津工場(現 沼津事業所)完成 : 社内報「藤倉電線ニュース」創刊 : 第25回都市対抗野球準優勝 : 超高圧実験室完成
ワイヤハーネス製造開始
東京電力に日本初の154kV OFケーブル納入 : 沼津熔銅設立 : 東京都多摩市に多摩藤倉学園設立
深川・沼津工場に次ぐ第3の工場を思い立ったのは岩戸景気さなかの1960年(昭和35)である。
兵藤嘉門、4代社長に就任
1964年(昭和39)に試運転が始まり、
佐倉工場に日本初の66kV POFケーブルを布設 : 通信ケーブルのSZ撚り方式製造装置開発
1965年から本格稼働した佐倉工場は、通信ケーブルを主体とした近代的な工場として急成長を遂げた。
佐倉工場は1965年に本格稼動し、通信ケーブルを主体とした近代的な工場として急成長を遂げた。
佐倉工場本格稼動
1965年(昭和40)から本格稼動した佐倉工場は高度経済成長の中、通信ケーブルを主体とした近代的な工場として急成長を遂げる。
千葉県佐倉市に佐倉工場(現 佐倉事業所)完成 : 千葉県佐倉市に佐倉工場(現 佐倉事業所)完成 : 栗山久治、5代社長に就任 : 栗山久治、5代社長に就任 : ダイスタンプ式プリント配線板生産開始
1968年、復興した深川工場が稼働していた。
霞が関ビルに本社事務所設置
1968年4月に霞が関ビルが完成し、同ビル11階で本社事務所を開始した。
1968年4月に霞が関ビルへ本社事務所を移転し、同ビル11階で業務を開始した。
霞が関ビル完成・本社移転
1968年(昭和43)4月に日本最初の超高層ビルである霞が関ビル(地上36階、地下3階)が完成した。
東京電力に275kV OFケーブル納入
1970年に第4の工場となる鈴鹿工場を建設し、電力CVケーブル生産専用の工場として先進的な設備を導入した。
鈴鹿工場は1970年に建設され、電力CVケーブル生産専用の工場として先進的な設備を備え、フジクラの電力事業を支える拠点となった。
鈴鹿工場建設完了
1970年(昭和45)から光ファイバの取り組みを進めていたフジクラは、
1970年(昭和45)に第4の工場となる鈴鹿工場を建設した。
三重県鈴鹿市に鈴鹿工場(現 鈴鹿事業所)完成 : 三重県鈴鹿市に鈴鹿工場(現 鈴鹿事業所)完成
木野二郎、6代社長に就任 : 木野二郎、6代社長に就任 : 社史「88年史」刊行
1973年10月に第4次中東戦争が勃発し、石油危機が発生。景気は落ち込み、電線業界に大きな影響を与えた。
第4次中東戦争勃発
1974年年頭に木野新社長が非常事態宣言を行い、経費節減などの対策を示した。
木野新社長非常事態宣言
CVD法による光ファイバ母材製造の検討開始 : 275kV CVケーブル開発 : 協栄線材(現 フジクラハイオプト)設立
1975年から電電公社と共同開発を行い、光ファイバの取り組みを進めた。
1975年に電電公社と共同開発を行い、光ファイバの取り組みを進めた。
共同開発開始
1975年(昭和50)より電電公社と共同開発を行い、
日本電信電話公社(現 NTT)、古河電気工業、住友電気工業、フジクラ間で光ファイバ共同研究協定締結 : 日本初、平型エレベータケーブル開発
1976年にMCVD法により極低損失ファイバを開発し、長波長側に超低損失領域があることを発見した。
MCVD法で極低損失ファイバ開発
IEEE論文賞受賞
1976年(昭和51)にはMCVD法により極低損失ファイバを開発し、
日本電信電話公社(現 NTT)と世界初の長波長極低損失光ファイバ共同開発 : 東京電力袖ヶ浦火力に500kV OFケーブル納入 : 河村勝夫、7代社長に就任 : 河村勝夫、7代社長に就任
高抗張力線入りユニット型ファイバ開発 : 日本初、154kV CVケーブル実用化 : 本社事務所を五反田藤倉ビルに移転
1977年10月、本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビルに移転した。
1977年10月に本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビルへ移転した。
本社移転五反田藤倉ビル
1977年(昭和52)10月、本社事務所を霞が関ビルから五反田藤倉ビルに移転した。
リボン電線、フラットケーブル製造開始 : 電子機器用フレキシブルプリント配線板(FPC)の生産開始 : 世界初低損失光シングルモードファイバで0.27dB/km達成
1980年にVAD法により極低OH基(1ppb以下)ファイバを開発し、波長1.0~1.8μmで1dB/km以下の低損失領域を実現した。
1980年にVAD法により極低OHファイバを開発し、世界に先駆けた技術を実現した。
VAD法で極低OHファイバ開発
1980年(昭和55年)には極低OHファイバを国産自主技術であるVAD法により世界に先駆け開発をし、
メタシールSPケーブル開発 : シングルモード用光ファイバ融着接続機開発
融雪用ヒートパイプ開発 : 日本初、光ファイバ複合架空地線開発
半導体圧力センサ開発 : 275kV CVケーブル納入 : 加賀谷誠一、8代社長に就任 : 加賀谷誠一、8代社長に就任 : 佐倉工場に光工場完成 : メンブレンスイッチ生産開始
日本列島縦貫用光ファイバ納入布設開始 : Fヒータを生産開始。 : 世界最長となるヒートパイプ融雪システムを定山渓温泉に納入
タイ王国最初の製造拠点となるフジクラタイランド社設立
1984年8月にタイ王国にフジクラタイランド社を設立し、タイ王国現地法人の第一号の会社となった。
1984年8月にタイ王国にフジクラタイランド社を設立した。
フジクラタイランド社設立
1984年(昭和59)8月、タイ王国にフジクラタイランド社を設立した。
創業100周年 : 世界初、コア直視型光ファイバ融着接続機開発 : 新社章制定 : 新社章制定
酸化物超電導材料の線材化に成功 : 佐倉工場に光エレクトロニクス研究所完成 : 社史「フジクラ100年の歩み」編纂
フジクラヨーロッパ社設立 : 世界初、CSトロリー線開発 : 世界初、多心光ファイバ融着接続機開発
光線路監視システム納入開始
1990年に深川本社ビルが完成し、営業・技術・本社機能等が一体となって業務を遂行できる体制が整った。
1990年に深川に本社ビルを完成させ、営業・技術・本社機能を統合した。
深川本社ビル完成
1990年(平成2)本社ビルが完成。
エルビウムドープ光ファイバ増幅器開発 : シスコム(現 フジクラソリューションズ)設立 : 深川新本社ビル完成
光システム開発センター完成 : フジクラプレシジョン設立
千葉県富津市に富津工場完成 : 社名を「フジクラ」へ変更 : 田中重信、9代社長に就任
1992年10月1日、藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。
1992年10月に富津工場を建設し、電力ケーブル製造・開発の新たな拠点として操業を開始した。
1992年10月に富津工場を建設し、操業を開始した。
1992年10月1日に藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。
富津工場建設完了
社名変更
1992年(平成4)10月、深川工場に代わる電力ケーブル製造・開発の新たな拠点として富津工場を建設し、
1992年(平成4)10月1日、藤倉電線から株式会社フジクラへと社名変更を行った。
深川本社に東京R&Dセンター完成 : 500kV CVケーブル、北本光複合海底ケーブル納入
超低損失多心コネクタ開発
普及型小型光ファイバアンプモジュール開発
関電・電発に世界最大規模の直流500kV OF海底ケーブル納入 : 世界初、リサイクルできるエコ電線開発
辻川昭、10代社長に就任 : 新幹線用新信号ケーブル開発 : 500kV CVケーブル新京葉豊洲線納入
2000年に深川工場跡地を再開発し、深川ギャザリアが誕生した。
2000年に深川工場跡地を再開発し、深川ギャザリアを誕生させた。
深川工場跡地再開発
深川工場跡地再開発「深川ギャザリア」誕生
2000年(平成12)、新たな都市「深川ギャザリア」が誕生した。
フジクラエレクトロニクス(上海)設立 : FTTH光製品商品化 : 自動車用着座センサ開発
高圧CV活線診断装置で澁澤賞受賞 : 地球深部探査船用ケーブル初納入 : ウエハレベルパッケージ生産開始
色素増感太陽電池開発 : 中国統括会社 藤倉貿易(上海)(現 藤倉(中国))設立
超高速エレベータケーブル納入
2005年に創業120周年を迎え、新経営理念であるMVCVを制定した。
2005年に創業120周年を迎え、新しい経営理念を制定した。
創業120周年
創業120周年 : 大橋一彦、11代社長に就任 : 新経営理念「MVCV」導入 : 古河電気工業と電力合弁会社のビスキャス設立 : 三菱電線工業と合弁会社「フジクラ・ダイヤケーブル」設立 : アメリカフジクラ(AFL)設立
2005年(平成17)に創業120周年を迎えた。
スペインACEの株式60%を取得 : 創業120周年記念事業として経営理念をわかりやすく伝える絵本「飛ぶぞう。」を作成
本社ショールームリニューアル : イットリウム系酸化物超電導線材、世界記録更新 : ファイバーテック株式会社買収
スペインACEを子会社化
長浜洋一、12代社長に就任
タイ王国のグループ7社を統合し、フジクラエレクトロニクス(タイランド)(FETL)設立 : オプトエナジーを買収 : 深川工場跡地再開発「深川ギャザリア」完成 : ビオトープ「フジクラ 木場千年の森」オープン
タイ王国の洪水で工場被災
光ファイバの量産性に優れたVAD法がIEEEマイルストーン認定
伊藤雅彦、13代社長に就任 : フジクラグループタイ王国洪水復興宣言 : フジクラ・ダイヤケーブルに産業用電線事業の製造事業および販売事業を統合 : 「フジクラグループ環境長期ビジョン2050を制定 : ビスキャスより配電線・架空送電線事業を譲渡
「フジクラ 木場千年の森」が東京都「江戸のみどり登録緑地(優良緑地)」に登録 : 監査等委員会設置会社に移行
イノベーションハブ「BRIDGE」を開設 : 世界最大心数の光ファイバケーブル(6,912心 Wrapping Tube Cable : Ⓡ : (WTC : Ⓡ : ))の販売開始
新型多心光ファイバ融着接続機90Rの販売開始 : スーパーコンピュータ「富岳」の冷却部品にコールドプレートが採用
タイ王国に電子部品製造会社「Fujikura Electronic Components (Thailand) Ltd.」を設立
岡田直樹、14代社長に就任 : フレキシブルプリント配線板の製造販売会社「株式会社フジクラプリントサーキット」を設立 : 送電線・メタルケーブル(ゴム絶縁電線含む)の製造販売会社「株式会社フジクラエナジーシステムズ」を設立 : 東京証券取引所プライム市場へ移行 : 香港に電子関連製品の販売会社「藤倉香港貿易有限公司」を設立
レアアース系高温超電導線材を小型核融合炉向けに増産 : 核融合炉の開発において世界をリードする米CFS社にレアアース系高温超電導線材納入開始
創業以来初の全国テレビCM放送開始
株式会社フジクラの代表取締役社長CEOの岡田直樹が、日経BP主催の「AIリーダーズ会議 2026 Autumn」に登壇します。会議は2026年9月1日と2日に都内でハイブリッド形式で開催され、AI産業革命における経営戦略や産業変革について議論されます。岡田は最終セッションで熊野信一郎編集長と対談し、データセンタ投資やフジクラの製品の強みについて意見を交わします。
フジクラの超電導事業部長の大保雅載が、テレビ東京の経済トーク番組「円卓コンフィデンシャル~他社との遭遇~」に出演します。番組では、次世代エネルギー技術として注目される核融合と、フジクラの高温超電導線材の役割について紹介される予定です。放送は2026年8月1日で、ネット配信も利用可能です。
株式会社フジクラは、2026年度からの中期経営計画に向けて、グループ経営理念MVCVを刷新し、ミッション、ビジョン、コアバリューを新たに策定しました。これにより、グローバルなものづくりと社会貢献を目指す方向性を明確化しています。
株式会社フジクラは、核融合エネルギーの実証を目指すFASTプロジェクトの推進と社会実装を目的として、Starlight Engineに出資しました。
株式会社フジクラの格付がR&Iによって引き上げられ、財務基盤の強化と収益力向上が評価された。
2026年7月号のプレスリリースで、フジクラは高密度光ファイバケーブルや漏えい同軸ケーブルなどの新製品を紹介し、通信インフラの高度化と信頼性向上に取り組んでいることを示した。
株式会社フジクラは、深川ギャザリアにおいて再エネ電力の活用拡大を目的としたオフサイト型コーポレートPPAを導入しました。
株式会社フジクラは、社会貢献活動の一環として、藤倉学園の製品即売会を開催しました。
株式会社フジクラは、地域交流を促進するため、木場一・六町会主催の盆踊り大会の会場を提供し、2026年も盛大に開催される予定です。
株式会社フジクラは、2026年6月10日から12日に幕張メッセで開催されるInterop Tokyo 2026に出展し、光ファイバ関連の新製品やネットワークソリューションを紹介します。