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〒190-1232 東京都西多摩郡瑞穂町長岡2-3-5
会社名
Group
親会社
子会社
得意先
仕入先
業務提携
銀行等
株主等
Primo Microphones GmbH (ドイツ/販売)
Group
子会社
Primo Microphones Singapore (Pte) Ltd. (シンガポール/販売)
Group
子会社
Primo Microphones, Inc. (米国/生産・販売)-メキシコ現地法人(生産)
Group
子会社
プリモマイクロホンシンガポール有限公司
Group
子会社
14 件
| 日付 | 概要 |
| 1952-10-24 |
1952年初春、創業者代田市藏は、それまで勤めていた会社を放擲されてしまった。理由は、最終校で首席卒業を果たしただけに、できすぎたために事なかれ社員との軋轢を生んだのだった。それを見た7人の同僚、部下が「代田さんが辞めるなら」と一斉に後を追って辞めてしまった。創業者は、その人達の生活を支えるために事業を興す決意をした。創業者自らが営業に歩き、瞬く間に商売が成り立つ感触をつかんだ。そこで、私財50万円を投入して「㈱武蔵野音響研究所」を設立登記した。時に1952年10月24日、当社の創立記念日である。 |
| 1952-10-24 |
昭和27年(1952年)10月24日、㈱武蔵野音響研究所として資本金50万円にて東京都武蔵野市に設立。レコード再生用カートリッジ、ピックアップ、クリスタルマイクロホンの生産を開始。 |
| 1954年 |
1954年(昭和29年)武蔵野音響研究所の社名を新しくしようと皆で考え、ラテン語で女性形のナンバーワンを意味する、プリマドンナから「プリマ音響研究所」とした。そして、名刺や銘板、社員と得意先用にタイピンまでも作った。ところが、業界の類似名称をもつ会社からクレームが入った、プリマは使うなと。 |
| 1955年 |
1955年(昭和30年)プリモ音響研究所と改名した翌年、雨漏りのする借り工場から、三鷹市にあった旧中島飛行機の跡地の一部500坪を購入した。そこには、食堂と厨房の木造平屋が残っていた。 |
| 1956年 |
1956年(昭和31年)まず初めは、生産工場としての体裁を整えるところから始まった。駆け出しの音響会社としては、超が付くほど先進的且つ高価な設備を整えた。創業者曰く「よそに真似ができないものを作ろうとするなら」絶対必要になる、そう言って測定用にドイツ製マイクと測定装置をそろえた。それを使うために必要な、音の反射を極限まで防ぐ無響室は、厨房と大型の冷蔵庫室を改造した。そのほかに、音を聞き比べる試聴室などが整えられていった。社員総出で造り上げた設備は、近隣の企業が借りに来るほどであった。 |
| 1959年 |
1959年(昭和34年)それを機に、社名を「株式会社プリモ」に変更して現在に至っている。その頃の工場内は、スペースを要するステレオコンポと並行してマイクロホン、ピックアップも生産していたので、さらに手狭となり1962年(昭和37年)木造平屋の工場から地下に無響室を備えた、鉄筋コンクリート4階建ての本社工場に生まれ変わった。 |
| 1964年 |
1964年(昭和39年)の東京オリンピック後の景気後退により、電機メーカーだけでなく他業種の大手企業は、こぞって台湾、韓国などへと海外展開を進めた。現在の中国進出と同じようなものであった。ところが、創業者の発想は違っていた。安い労働力だけを狙った海外進出は、いずれは行き着くところまで行ってしまう。プリモは安い労働力は狙わない、日本から夜逃げをする、と業界紙の記者に話した。どうせ海外に出るなら、世界で一番人件費の高いアメリカに行くと記者に話した。 |
| 1965年 |
1965年(昭和40年)マイクロホンは、クリスタル型からダイナミック型(現在ムービングコイル型という)へと移行していた。初めは手作業によるコイル巻きであったため、品質も安定せず数量も上がらなかった。1965年(昭和40年)頃に、アメリカ大手事務機メーカーから事務機用マイクロホンの要求を受けた。これはマイクロホンとスピーカーの両方が一体化したもので、上司が喋って録音して秘書が聴きながらタイプを打つためのものである。要求数量も大きく手作業では到底間に合わなかったことから、要所要所を半自動化した。これにより数量はもとより性能品質も向上した。 |
| 1967年 |
1967年(昭和42年)当時から商社経由で輸出を行っていたので、製品の宣伝と売り込みを目的にアメリカのシカゴに駐在員事務所を開設した。この頃、コンデンサーマイクロホンCM16、19の生産が始まった。 |
| 1968年 |
1968年(昭和43年)マイクユニットに使用しているマグネットの価格を、メーカーと共同で下げることに成功して、価格においては右に出る者がいない状態となり、同業の大手企業も面と向かってお手上げと言うに至った。 |
| 1969年 |
1969年(昭和44年)創業者が「アメリカで本格生産」を始めたい。だが、適任者がいないと言っていた。多くの社員がいるにもかかわらず、適任者がいないとは理解に苦しむ話であった。その真意は、「蜜月関係の日米は何れ摩擦を引き起こす」、「日本人排斥運動」でも起こってノイローゼにでもなったら、社長として親類縁者に対して責任が取れない、と言うことであった。 |
| 1970年 |
1970年(昭和45年)弱冠25歳にして渡米し、二代目駐在員事務所長になったのは、後の二代目社長であった。そして、1973年(昭和48年)6月にシカゴ市にアメリカ現地法人を設立した。初めは、本社製品の輸入販売であったが、直接の商売はゼロで本社の製品の宣伝が主となった。 |
| 1973年06月 |
1973年(昭和48年)6月にシカゴ市にアメリカ現地法人を設立した。初めは、本社製品の輸入販売であったが、直接の商売はゼロで本社の製品の宣伝が主となった。 |
| 2022年10月 |
2022年10月に創立70周年を迎えました。 |
2026-06-08 08:05 (Model: ggml-org/gpt-oss-20b )